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葛飾柴又を歩いて

京成電車を高砂で金町線に乗り換えて、次の柴又で降りたら、駅前で寅さんの銅像が迎えてくれた。少し離れた所には、兄を見つめるようにさくらの像が立っていた。


1 葛飾柴又の文化的景観

京成金町線は、金町・京成高砂間を結ぶ短い路線で、その間には柴又駅しかない。明治時代には、人が客車を押すという人車鉄道が作られ、帝釈天への参拝客のために、明治32年に金町と柴又の間に帝釈人車鉄道が開設された。江戸時代からの柴又の興隆が偲ばれる。

この柴又は、平成30年2月13日、「葛飾柴又の文化的景観」として、都内初の重要文化的景観に選定されたそうで、①柴又街道・水戸街道と江戸川河川、②帝釈天題経寺と門前、③都市と農村の両義性が三要素だそうだ。両義性とは、ふたつの相反するものが同じように存在していることのようだが、都市と農村の性格の両方がある位の意味だろう。文化的景観が、人間と自然の共同作品と言われ、また人間の自然への働きかけと言われることが意識の中にあるのだろう。

私の中にある柴又帝釈天のイメージは、帝釈天題経寺とそれに続く門前及び江戸川の流れである。

柴又駅からの参道を行くと、途中で柴又街道が南北に横切り、柴又街道の北で水戸街道にぶつかる。また交通河川として近くを江戸川が流れ、矢切の渡しで対岸の松戸と結ばれている。この辺りは、東京と千葉県を結合する地点である。

地図を見ると畑がわずかに残っているようだが、歩いても都市近郊の農村景観は感じられない。これは、私が育った江戸川区も同様である。昭和の頃には多くの水田や畑があったが、今は少ない。

柴又には親戚がいて、柴又の◯◯さんと呼んでいた。時折手に入るせんべいに、家の者が「柴又のせんべい」とわざわざ柴又をつけていたことは、特別な土地だったのだろう。

何よりも、下町住民にはよく知られた柴又が全国的に著名な観光地になったのは、山田洋次の「男はつらいよ」シリーズによることは間違いない。

柴又帝釈天の楽しさは、どこにあるのか。羅列するとこんな所かと思える。
1 昔ながらの下町の寺と門前の世界に没入できる。
2 「男はつらいよ」の映画の舞台を実体験できる。「男はつらいよ」に映し出された数々の風景が楽しめる。
3 江戸川河川敷と矢切の渡しの牧歌的風景を楽しめる。

今回その柴又をふたりの友人と歩いてみて、いくつかの魅力を感じた。

2 帝釈天の門前

友人と駅前で11時に待ち合わせて、柴又を散策した。先ず、帝釈天の参道を楽しんだ。

柴又駅からすぐに参道が始まる。このあたりは、観光客に隙間を与えずに、すぐに帝釈天の世界に入っていける優れた要因だと感じる。

一度柴又街道を越えて、心地よい曲りのある参道を歩く。道は真っすぐより曲がっている方が美しい。ある程度歩くと、題経寺の風格ある寺院が、見えてくる。寺院と木造建築の商家との一体感が良い。

参道には、餅菓子屋や飲食店が並ぶが、居酒屋はない。日没には店は閉まっている。くるまやのモデルといわれる高木屋が両側にあり、草団子が食べられる。そばやラーメン、カレーライス等何でもある昔懐かしい食堂の「とらや」があった。川千家からは鰻の良い匂いがする。手焼きせんべいを焼く匂いがする店がある。その日は、仕事納め前なので人通りも少なくゆったりと観光を楽しめた。

参道が切れる所には園田神仏具木彫店があり、左側に並ぶ2店と向かい側の店の3店を経営している。たまたま、園田さん姉弟がそれぞれの店で番をされていた。弟の園田正信さんは三代目にあたる彫刻師だ。店先に竹製のはじき猿と木彫のお祓い猿が目についた。湾曲した竹バネで猿を弾くことで災難をはじき去るといわれる縁起物である。また猿は帝釈天のお使いでもある。今回は、木彫のお祓い猿を買った。友人は、帰りにはじき猿を買うと言うので、閉店時間を聞くと4時とのこと。

題経寺を見学した後に昼食を「とらや」で取る。いろいろなものがある下町的な大衆食堂だ。昔は何でも食堂が多かったが、今は数少ないためにレトロなイメージだ。

Yさんたちは、ひとりはカツ丼、もうひとりは「とらみそラーメン」を注文。とらみそに惹かれたらしい。私はおかめそば。それと草団子とコーヒーセットを食後に全員が注文。

とらみそラーメンは、ラーメンの横に味噌つき海苔が乗る小皿が付いていた。とらみそラーメンのとらみそは何?と店員さんに聞く。すると、以前はその海苔が寅さんの形をしていたのでとらみそと言ったとのことだが、今は四角の海苔に変わっている。

食後に食べた草団子は、あんこがたっぷりついて、すごく腰があり、歯ごたえがあった。草団子が名物なだけある。ヨモギは、江戸川河川敷産かねと無駄話をする。

草団子コーヒーセット

3 題経寺に

題経寺の二天門を潜り、広々とした境内に佇む。松の枝が鵬の羽のように張り出している。正午の鐘がなる。映画では、源ちゃんが鐘を突いていたねと、Yさんと話し合った。

二天門

題経寺には至る所に木彫彫刻がある。特に本堂の周りには、有名な法華経説話を描いた彫刻があり名高い。靴を脱いで上り、見学した。法華経の説話を描いた10枚の浮き彫り彫刻が本堂の周りを飾っている。燃えさかる火に包まれる家の前に牛、山羊、鹿が引く三つの車、象に乗った普賢菩薩、仏の前に現れた宝塔、民衆から追われながら教えを説き続ける笠を背にする常不軽菩薩などが描かれていた。法華経を知らなくても圧巻の浮き彫りだ。
回廊を歩き、大庭園を見学したが、次第に足底が冷えてきて、日の当たる場所で足を温めながら歩いた。なお、彫刻ギャラリーと庭園の見学は、セットになっている。

4 江戸川へ

帝釈天の石垣に王貞治さんと王鉄城さんの名前が刻まれているので、友人に見せて上げたく、ゆっくりと歩いた。王貞治と王鐵城の名前が見つかり、友人は喜んでいる。これに興じていろいろな名前を見つけては喜んだ。園田正信・・・先程会った園田神仏具店の主人だ、元横綱柏戸鏡山剛もある。渥美清と倍賞千恵子、三崎千恵子と春風亭柳昇の名前があった。

王貞治さんと王鐵城さん
渥美清さん等の名前が

帝釈天から江戸川への道は、数十年の歳月を経て、ずいぶんと変わっていた。高校生だった昔は、自由に庭園内に入れて、道路に出た辺りは、映画の場面に出てきた場所だった。そんな脳裏にある昔の記憶を追いながら歩いたが、映画に出てきた帝釈天の近くの生垣や門はなくなり、川甚もなかった。江戸川河川敷は、昔を知る者にはきれいすぎる位に整備されていた。「葛飾柴又の文化的景観」は、心の中にあるのだろうか。現実の波に押されつつある。

それでも江戸川の流れは変わらない。土手から広々とした河川敷に下りると、寅さんが寝ころんだ土手の緑が目に入る。寝ころぶには、今は冬、草は固そうだ。向こうに国府台が見える。対岸は松戸市矢切、歩けば野菊の墓がある。

矢切の渡しは、今日はお休み。明日からの年末年始(12月28日から1月7日まで)は毎日運行すると案内に書かれていた。

矢切の渡しの方を見る
矢切の渡し

5 寅さん記念館

土手下にある寅さん記念館を訪れた。
改修されたのか、以前よりきれいな外観に変わっていた。入館すると題経寺の二天門が正面にあり、次の部屋には寅さんの生い立ちが分かるジオラマが展示されていた。以下ジオラマの場面から。
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寅さんは、昭和10年生まれだったのか。生きていたら89歳だ。幼少期はいじめられっ子とは意外だった。つらい体験からそれを克服して威勢のよい性格に変わり、それ故に弱者の気持ちがわかる、やさしさを合わせ持っているのだろう。寅さんの原点は、いじめられる弱者にある。

親父さんが他所で作ったのが寅さん、だから寅さんとさくらは異母兄妹だ。親父さんは、出征するが、戦後に骨と皮になり、帰ってきた。

寅さんは、14歳で家出して、香具師(テキヤ)に弟子入りする。バナナの叩き売りのジオラマでは、先輩の口上より、寅さんの口上が例の名調子で抜群に文学的だ。展示してあった履歴書には、得意な科目が国語と社会とあった。20年を経て、故郷柴又に帰り、さくらと再会するが、ここからは誰しもが知るところだ。
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実際に撮影に使われた「くるまやのセットがある。名場面の舞台となった茶の間が意外と狭く感じる。ここで、おいちゃん、おばちゃん、さくら、ひろしが座り、こちらにリリーがいて、そこに寅さんが入って来て騒動を起こすあのメロン事件の演技がよくできるものだねと友人と話し合った。縁側に座った寅さんと記念写真を撮った。

「男はつらいよ」シリーズ50作のポスターやマドンナたちを見て、各人の思い出の場面を話しているうちに、あっという間に閉館時間になった。

外に出たら夕闇だ。西の空に金星が、東の空には木星が昇っていた。暗い道を柴又駅へと向かう。夕暮れなのに題経寺の門は開いていた。Yさんが「映画では源ちゃんが門を閉めていたね」と言った。


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