「運転手がいない」という幼児の言葉
東京の湾岸を走るモノレールの「ゆりかもめ」は自動運転なので運転手はいない。先頭車両の先頭席は、運転席のような気分が味わえる。子連れの親子には人気がある席だ。
電車の好きな孫のY君(4歳児)が先頭車両の先頭に立ったときに「運転手いない」と言った。自動運転だから運転手はいないんだよと教えてあげたが、幼児のY君が運転手がいないことに気づくとは。
無いものが無いと分かるには、有る物を知らなければならない。有は、見れば有だと分かるが、無は見ただけでは何が無かは分からない。無であることにも気がつかない。
藤原定家の和歌「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」は、無の美を歌った歌として有名であるが、桜や紅葉という有の世界を前提にして、無の世界を感じることに妙味がある。
ゆりかもめの先頭に運転手がいないという無は、運転手という概念があってはじめて知ることができる。運転手の存在を意識していないと、存在しないことにも気づかないだろう。Y君が運転手という有の世界を強く意識しているからこそ、運転手がいないことに気づいたという点では、「桜も紅葉もない」と思った定家の発想に似ている。
無というのは、有があって、はじめて無なのだということをY君に気づかされた。