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入院中の祖母への明治37年の手紙
祖母が入院した。入院先は牛込区早稲田南町27の少林病院、どの辺だろうと明治時代の古地図帳を持ち出してみると、南町25に早稲田小学校があり、その2つ隣にあった。少林病院のあった場所は、今では早稲田小学校の敷地拡張により構内に組み込まれたようである。近くに夏目漱石の漱石山房跡や生家の夏目坂がある。住居表示が当時と現在では変わっていないことが驚異である。
何の病で入院したのかは、確かでない。はる子(晴子)が奉公している佐々木家の同僚のつる子、やつ子、ふく子からのお見舞いの手紙だが、筆は遠藤ふく子による。佐々木家にはたくさんの女性たちが働いていたことが分かる。昔の御屋敷は、こんなに人手が必要とされたのかと驚く。
佐々木家は、旧幕臣の家系で、直右衛門の子慎思郎・勇之助兄弟は金融界の実業家である。『人事興信録 明治36年版』を見ると、佐々木慎思郎宅が神田区西小川町壱丁目三番地である。母からは、祖母が勇之助次男修二郎宅にも奉公に上がっていたことや昭和になっても佐々木家の奥様を訪問したことを聞いている。戦時中には、動員のため人手が足りず、埼玉県から手伝いに行っていた。明治から昭和にかけての長い期間、佐々木家との交流があった。なお修二郎の妻ノブは小泉信吉の娘で信三の妹にあたり、明治27年生まれで、祖母より9歳年下である。だから、渋沢栄一や佐々木勇之助のことが話題になると、佐々木修二郎や「奥様」が連想されて、自然と祖母のことが思い出されてくる。
祖母の病は、祖母からのハガキによれば快方に向かっていた。
仮訳
【宛先】
牛込区早稲田南町二拾七
少林病院内入院者
田中はる子様 御許に
消印37.10.1
【差出】
神田区西小川町 佐々木方
遠藤冨久子
十月一日
【本文】
とかくよからぬ時こうに居候處 其後いかがにいたせられ候哉 日々御安し申し居候
しかし昨日のおはかきにては日々■■御快方との御事何よりうれしく存じ居候拝
おるす中はふつつかなから皆気を合せ何言やら間に合ひ申居候まま必御気づかいなく候 ゆるゆる御養生遊されたくお願ひ申し上居候
末筆ながら御母上さまへよろしくおつたへ被下度御願ひ申上居候 まつは取りいそき御見まいまで 早々かしこ
十月一日 つる子 やつ子 ふく子 拝
ゆかしき はる子の君 御許に■■
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