夫婦のささいな先祖つながり
この数年、夫婦両方のご先祖様調べをしている。私の方は庶民なので戸籍でたどれる程度だが、妻の方は幕臣だったので、由緒書や過去帳で江戸初期までたどれる。先祖に関して接点のないはずの夫婦だが、調べてみたら明治に微かな接点があったのが面白くて書いておこうと思う。
妻の曽祖父は、原田信民といい、代々御腰物方同心を勤めた幕臣で、幕末には幕府陸軍に属し、歩兵差図役下役並勤方、慶応4年に小筒組差図役頭取となり、徳川家が駿河に移るときに随従し、沼津に移った。沼津には旧幕臣を育成するために明治元年に沼津兵学校が設立された。これは単に軍人養成学校というのではなく、欧米からもたらされた学問を総合的に学ぶ機関だったようで、テクノロジーに力を入れていて、沼津兵学校出身者で日本陸軍の工兵砲兵分野で活躍した者が多い(沼津兵学校第七期資業生渡瀬昌邦の工兵大佐、沼津兵学校付属小学校出身の山口勝の砲兵少将などの例)。この兵学校には資業生という制度があり、この試験に合格したら資業生として学ぶことを許された。数回にわたり試験が行われたが、妻の曽祖父の原田信民は第3回の試験に合格している。そして、第1回の試験に合格したひとりに、金融界で活躍した佐々木慎思郎がいる。この佐々木家に奉公に出たのが、私の祖母である。佐々木慎思郎は、渋沢栄一の後を継いで第一銀行頭取になった佐々木勇之介の兄にあたる。
私の祖母は、田中セイといい、日本橋田所町19番地に生まれ育った生粋の江戸っ子である。明治18年6月24日生れで、十代で佐々木家に奉公に上がった。幼なじみや姉たちから佐々木家内の祖母宛に出された封書の表書きには、神田区西小川町1丁目3番地とある。奉公は住込みであった。祖母と佐々木家の関係は、祖母の結婚後も続いたらしく、戦争中は、動員のため人手が足りなくなったため、住まいの川越の蓮光寺から佐々木家に手伝いに行っていたという。母も子どもの頃に祖母に連れられて、佐々木家を訪問し、帰りに人力車を出してもらい品川駅まで送ってもらった話をしていた。品川御殿山に邸宅があったと言っていた。昭和19年に母が西久保巴町に移ったときも、祖母が佐々木家からの帰りがけに西久保巴町の家に寄り、「今、佐々木さんのところに行ってきたよ」と言って話をして帰った。終戦後も奥さんとの付き合いは続いていて、挨拶に行っていた。
母からは佐々木修二郎(人事興信録では三田綱町)の名前をよく聞いていたので、明治の頃に祖母が奉公したのは、修二郎の父勇之介だと思っていた。しかし改めて、人事興信録(明治36年)を開いてみると佐々木慎思郎の住まいは、神田区西小川町1丁目3番地であり、まさに祖母の奉公先であった。だから祖母の最初の主人は佐々木慎思郎ということになる。
妻の曽祖父原田信民は、沼津兵学校第三期資業生であり、第一期資業生の佐々木慎思郎とは、資業生同士の交流があったであろう。維新後も沼津時代の旧幕臣の交流が「沼津旧友会」として続いていた。原田信民も佐々木慎四郎も同会の幹事をしていたという記録(「沼津兵学校沿革(七)(『同方会誌』44))が残っている。
というのが、私と妻のささいな先祖つながりなのだが、こんなことが分かったときに、妻に「佐々木慎思郎て知ってるかい。沼津兵学校第一期資業生だよ。信民と知り合いだよ」と叫んだのである。これを『吾輩は猫である』の三毛子の二絃琴の御師匠さんの「天璋院様の御祐筆の妹の」風に書けば、「私の祖母の奉公先の佐々木家のご主人の佐々木慎思郎のお友達の原田信民のひ孫が妻」ということになる。
【原田信民略歴】
幕府陸軍での役職は、慶応3年家督相続時は歩兵差図役下役並勤方、慶応四年に小筒組差図役頭取となり、徳川家が駿河に移るときに随従し、沼津に移った。選ばれて沼津兵学校の生徒となり、明治2年6月4日と5日実施の沼津兵学校第3回資業生試験に及第した。明治3年12月に大阪兵学寮幼年学舎に入学するために大阪に遣わされた貢進生の監督と世話をするために、石井至凝とともに大阪に赴いた。明治4年12月に大阪兵学寮が東京に移され、明治5年5月に沼津兵学校が廃止されるに及んで上京し、青山にセイサン学舎という私塾を開き、旧幕臣子弟の教育に力を注いだ。
明治6年6月10日に茨城県久慈郡太田の太田小学校教員に任命され、次いで同年7月から第37番中学区取締を兼務し、久慈郡、那珂郡、多賀郡における小学校の開設・運営に尽力した。また、明治6年12月に茨城県拡充師範学校の副教員に任命され、その開校のための事務に尽くし、明治8年に太田小学校教員に戻り、明治9年に茨城県に奉職し、視学係、学務係、教育会議員、茨城県師範学校副校長心得等を歴任し、茨城県の教育分野で活躍した。明治15年から明治20年までは、上京し大蔵省銀行局に勤務した。その頃、茨城県人親睦会の開催のために尽力したことが、野口勝一の日記に詳しい。
明治20年に茨城県に再び出仕し、学務課に籍を置き、最後は茨城県師範学校幹事心得となった。そのときの師範学校長は信民の義弟渡瀬寅次郎であったが、明治22年に生徒の風紀問題に係る紛議が起こったことに起因し辞職した。信民も同じ頃に茨城県を去って、上京し、本郷に磊磊堂という書店を開き、販売だけでなく、出版も手がけた。明治29年4月逝去。享年55歳。法名「禮譲院特譽信民居士」。磊磊堂は、妻要(かなめ)を後見として長男義民が継いだ。