コミュニケーション能力は既に決まっていたりする。
お久しぶりです、二枚舌ねこのです。
人間然り、生き物にはコミュニケーションが必要不可欠で、たぶんそれは義務教育みたいなものだと思う。大学の必修科目というか。
わたしの父方の従姉妹は幼少期から勉強漬けで、祖母の家に行くときも教材がめいっぱい詰め込んだ箱を和室にドカンと置いては、「これから勉強するから」と残してぴしゃんと戸を閉じた。
我が家の方針(?)では祖母の家(静岡でお隣なんですが)遠出するときくらい、遊んでいいからねといわれていたから、祖母の家に行く前にその分のベネッセチャレンジの勉強を多めにして、祖母家ではどうぶつの森とかで遊びまくってた。
わたしも小さいながら、「あんだけ勉強するんだからよっぽど良いところ目指しているんだろうな」って思ってて、母が叔母に向かって
「ねこの(当時小6)が従姉妹ちゃん(当時小3)の問題なんて難しくて解けなさそうですねw」
って云ったことあって、
「ええ、解けないと思いますw」
と応えられて母子ともに口あんぐり状態だったのをよく覚えていたりします。
従姉妹は尽くされていたので、「みず!」「おちゃ!」と自分の父を顎で使う子で、親もそれに従うから親の威厳すら見えなかったし、怒り方も優しく「だめだよ?」だったからもう手遅れやーってかんじ。
そんな子がどんな大人になったかというと、
コミュニケーションが円滑にできないひとになってました。
もう何年も会ってないから今はどうなっているかわからないけれど、親戚の集まりで会った時めちゃくちゃ無言つらぬいててどうしたの状態。
わたしは子どもがいないから憶測ではかることしかできないけれど。思うに幼少期って勉強は大事だけれど、それ以上にいろんな人間と触れ合ったり、遊んだりするのも同じくらい大切なことだと思う。
勉強はひとりでもできるけれど、集団生活を強いられている以上、誰かと一緒になにかをする事は避けられないわけで、その時に円滑にできる能力こそが幼少期誰かと遊ぶという事で得られる能力だと私は思っていたり。
大人になっても謝らないひとはいるし、平気で遅刻するひともいるし。現状の不満ばかりいって自分からは何もしないひととか。子ども目線でも「いやそれはおかしい」って思うようなことも、平気でやるんです、大人だとしても。
タチの悪いことに、そういう大人って自覚がなくて、例え云ったとしても「わたしなりのやり方がありますので」で試合終了のゴングが鳴る。
ああ、めんどくさいなあ。
にんげんってめんどくさい。
でも、めんどくさい人間ってそこまで多くないのに、面白いことにうじゃうじゃいる気分になったりする、不思議。