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カメラは魂を宿すか。

私は日本古来の自然信仰の考え方が好きです。
自然信仰は全世界に存在しますが、文明の発展した先進国では、恐らく日本だけが自然信仰の国です。
自然信仰の考え方はとても簡単です。
ありとあらゆるものには魂が宿り、ありとあらゆるものには神が存在する。

さて、私は一方で、オカルトは信じません。全く信じません。
しかしオカルトの中には、オカルトではないものがあると考えています。
特に、全世界の原始的社会に存在する自然信仰は、オカルトではないと分析しています。

みなさんは大型トラックの運転手が、まるで運転手の体の一部のように大きなトラックを扱って、道路に置かれた卵を踏まないように避けたり、はたまたパワーショベルで細かい習字を書いたりするのを、テレビなどで見たことがあると思います。

なぜ、あのようなことができるのでしょうか。
実は単純な理由があり、人間は道具を扱う時に、その道具を自分の体の一部であると認識する機能が備わっているのです。
しかも使い込めば使い込むほど、そのシンクロ率は上がっていき、数センチ単位どころか数ミクロン単位の繊細な動きまでもを、文字通り体の一部のようにコントロールして動かし、操ることができるのです。
そして、体の外にある物体を、体の一部として脳が認識し始めるときに感じる感情が「愛着」なのです。
財布やコップ、テレビやパソコンまで、ありとあらゆるものに人は愛着の触手を伸ばし、自分の体の一部として認識していくのです。体と言うよりも、「魂」と言った方がしっくりくるかもしれません。

こうして人の魂は、周囲の物体に対して愛着というネットワークを築き上げて生きているのです。
もちろんカメラにも愛着を感じているハズです。
愛着を感じているものを突然失うとショックを受けるのは、人の魂が、その物体を自分の体の一部として考えているからで、それは当然のことなのです。

そして、この魂の触手には何らかの物理的なエネルギーが、実際に、そして科学的に介在しているのではないかと、私は仮説を立てています。
そう、魂とは、未だ発見されていないエネルギーなのではないか。

科学が進歩するにしたがって、特に近年、発見されていない未知のエネルギーが存在する可能性を、多くの科学者が指摘しています。
その未知のエネルギーのひとつが、人の魂を形成している可能性は、ゼロではないと思います。
または、人の魂を介在するエネルギーかもしれません。
何しろ現代の多くの科学者が真面目に唱えるシミュレーション世界が、本当に現実味を帯び始めた今の世界において、それは決してオカルトではないのではないか、ということです。

ではなんでこんなヘンテコな仕組みを、人は持っているのでしょうか。
恐らくこの仕組みは、人間がより大きな生き物となって行動している証ではないかと思うのです。
魂に司るエネルギーのネットワークを組み上げ、そのエネルギーをやり取りすることで、人はまるでひとつの巨大な生き物として行動しているのではないでしょうか。

こういった考えに至った大きな理由は、何故、原始社会の全てに自然信仰が存在し、そして全てに神を祭るイワクラが存在するのか?常々疑問に感じていたからです。
あまりにも共通項が多すぎるということは、それは人にとって、科学的に必然的存在であるということです。

イワクラが存在する理由は、大きな岩や、山、樹木などの存在は、より多くの広範囲の人の目につくものであり、結果的により多くの広範囲の人の魂のネットワークに組み込まれて「愛着」を得るためではないでしょうか。
多くの人の魂という未知のエネルギーが、実際にイワクラに集結するためではないかと考えたのです。
そして人は、そのエネルギーを感知する能力を持っている。
日本においては、ご存じのようにそういったイワクラは、鳥居によって神域が設定され、神社というものに進化し、現代に至っているわけです。

どうですか。
結局オカルトじゃないか!と笑い飛ばしてもらって大丈夫です。
ヒマつぶしにはなったでしょう?
それに、チョット面白いでしょう?
そして、きっと明日から、あなたのカメラという道具を見る気持ちに、変化が現れます。
物は大切にしましょう。
きっといいことがありますよ。

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