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映画「八犬伝」
映画「八犬伝」を観ました。去年劇場公開されたときは久々に観たい映画だなぁと思ったのですが、上映時間が2時間半もあって躊躇していました。
今回AmazonPrimeで配信されたため、自宅でゆっくり鑑賞した次第。
映画「八犬伝」は、南総里見八犬伝の内容と、作者である曲亭馬琴の生涯を平行して描いた作品です。
このことを知らずに観た人からは一部で酷評が上がっているようです。
しかし、私から見た評価はスバラシイの一言。
特に曲亭馬琴の現「実」世界と、八犬伝の「虚」の世界。実と虚というしっかりとしたテーマがあり、2時間半、全く飽きることなく集中して楽しめました。
実と虚については私の風景写真の根源的テーマのひとつで、リアリティの中に現れる非現実性をどのように表現するかにこだわっています。また実と虚は多くの芸術家のテーマでもあり、そしてこの作品は曲亭馬琴の生涯を通して芸術家や作家の生き様を丁寧に描いていました。
以前に何度も指摘してきましたが、昨今のアーティストと名乗る人たちはカネや名声を手っ取り早く手に入れる方法を模索することに人生を賭けており、作品に対する情熱が全く感じられません。
例えば公共物に誰でも描けるようなデザインの落書きなどをして、違法なことをやって注目を浴び価値を付け加える、といったような作品がそれです。まぁ確かに金儲けのセンスは芸術的ですが、作品そのものを見ても何の情熱もメッセージ性も感じません。
全力で挑んでいない作品と言うものは、見ればすぐにわかってしまうものです。常にカネというものが作者の頭の中を回っている、今の世の中そんな作品ばかりでうんざりしてしまいます。
また、最近ではAIを使用した作品を作って、芸術家気取りの人が急増しています。
出来上がった作品は確かに芸術作品として考えるべきだと思います。
でもその作品を作ったのはAIという芸術家です。使用した人はせいぜい補助者とか使用人とかプロデューサーといったところで、彼らを芸術家と呼ぶのはムリがあるでしょう。
閑話休題、南総里見八犬伝に出会ったのは小学校の頃でした。
子供の頃は本が大好きで、日中は始終外で遊びまわっていましたがそれ以外にいくらでも自由な時間があり、それこそ学校の図書館の本を全て読んでしまうほど本が好きでした。
その中で、未だに超えるものが無いと思っている作品2つに出会います。
ひとつは「西遊記」。
そしてもうひとつが「南総里見八犬伝」。
どちらも傑作中の傑作であり、現代のエンターテイメントの全てが、既に完成した形でこの中に納まっていると言っても過言ではないでしょう。
これを超えるのは容易ではないと思います。
映画「八犬伝」を通して馬琴の作品に興味を持たれた方は、原作の「南総里見八犬伝」を読んでみて欲しいと思います。たぶん、驚愕すると思います。そのストーリー性、独創性、ファンタジーに。全力で描いた作品の凄さに震えると思います。
そして芸術とは何なのか、芸術家とはどうあるべきなのかについて、きっと考えさせられることになるでしょう。
また、この映画「八犬伝」は映像美においても特筆するものがあります。
光と影を強く意識した描写は美しく、落ち着きのある広角描写を用いながらも臨場感を失わないなど、非常に見応えがありました。
是非この機会に映画「八犬伝」をご覧ください。
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