それでも、私は生きていく。
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執筆者:Jinny
シャットダウンは突然に
水曜の18時過ぎ。
(そろそろ保育園にダッシュしないと。。夕飯の準備だって。。。)
オンライン会議越しに嫌味たっぷりのご指導。上司の態度がヒートアップしていくにつれ、わたしの心は冷めていく。彼にとって、わたしは、「操作性がイマイチ過ぎるスペック不足のマシーン」といったところか。
屈辱、嫌悪、軽蔑、復讐心、、、負の感情がウイルスのように一気に体全体を浸食した。頭の中でバチンとシャットダウンする音が聞こえた。再起動のメドはなし。ならば廃棄処分か?
いいや、わたしはキカイじゃない。
ここ数か月、上司と打合せがある日は、決まってわたしの機嫌が悪くなり、些細なことで子ども達に怒鳴り散らしていた。怯える幼子の顔を睨みつけながら、いま自分がやっていることは、あの憎い上司とおんなじだと気づく。自分を恥じた。
子どもを守れるのはもうわたしだけ。
そう思った瞬間、迷いは消えた。
休職を決意した翌日、久しぶりに鏡の中の自分をじっくり見た。目は落ちくぼみ、頬はこけて、人相すら変わっていた。とても自分とは思えなかった。
夫が亡くなってから、8か月が経っていた。
玉の輿結婚がしたい
わたしが生まれ育ったのは、東京から遠く離れた地方都市。
高校生のわたしにとって、テレビで観る東京は、とても刺激的だけど近づくことのできない怖い街。そんなわけで、進学先も就職先も、東京を選べなかった。その頃のわたしの夢は、玉の輿結婚。
新卒で就職したのは、皆が知っている有名な会社。テレビCMもバンバン流しているこの会社なら大丈夫だろうと思った。
総合職として入社したが、一般職のお姉様に倣って、夜の席ではお酌をした。酔った男性らの「総合職のオンナは気が利かない」と漏らした本音は聞こえないフリをした。
使えない女と言われたくない
仕事に慣れてくると、海外出張の機会がもらえた。最初は先輩と一緒に。そのうち一人でも行くようになった。
プライベートでも、後に夫になる彼と一緒に、白地図を塗りつぶすように色んな国を旅した。初めて経験する全てのことに興奮した。
いつの間にか、玉の輿の夢は忘れていた。
30代半ばになり、管理職昇格が視野に入ってきた。不妊治療をしていることは隠して乗り切った。妊娠を機に会社近くに引越し、ゼロ歳児を保育園に預けた。「やっぱり女は」と切り捨てられないよう必死だった。そうして念願の管理職に昇格した。
プロフェッショナルとは、赤ん坊が生まれようが、配偶者が亡くなろうが、いつも変わらぬ成果を出せる者。昭和マッチョなカルチャーにどっぷり染まり切っていたわたしは、それが正しいと信じ込んできた。
でも、それは、わたしの本心じゃないと、やっと気づく。
人生の三分の一以上の年月を共にし、これからも共に生きるはずだったパートナーを失い、自分の歯車が時間差で停止して、やっと。
家族で日常を紡ぐ
半年間の休職を経て、復職した。
・朝夕、一緒にゴハンを食べる。
・行ってらっしゃいと見送り、お帰りなさいと迎える。
・一緒に絵本を読んで一緒に寝る。
これらは、わたしが努力して維持している、かけがえのない日常だ。目の前にいる我が子らは、毎日やかましく子どもらしく生きている。いまわたしは、東京でひとり親として、二人の子どもを育てている。
彼がいなくなって、もうすぐ2年。
わたしにとっては一大事であったことも、世間は周囲はお構いなしに回っていく。自分だけがあの日から立ち止まったまま。
このエッセイはそんな自分を励ますために書いた。もう一度立ち上がって、自分のペースで歩いていこうと決めた自分のために。
まだ傷は癒えていない。
それでも、私は生きていく。