晴れときどきレモン
執筆者:Jan
日常からハッピーを見つける天才
ある朝のこと。10才の娘がにこにこ顔で「今日は6月1日でラッキー!だって1日って1年でたった12回しか来ないよ!しかも私が生まれてから10回目の6月1日!」と言って喜んでいる。
誕生日でもないのに月の1日目というだけでこんなにハッピーになれてしまう。娘は日常からハッピーを見つける天才だ。こっちまで、日々楽しまなきゃ損だと思えてくる。
”When life gives you lemons, turn lemons into lemonade”という英語の格言がある。人生がレモンという試練を与えたなら、砂糖を加えておいしいレモネードにしてしまおう!という意味だ。私がレモンをレモンで終わらせないのは娘の存在があるからだ。
人生がレモンをよこしてきた8年前のこと
人生にレモンを投げつけられた8年前のことを思い出す。娘は2才。私と元夫が住んでいた東京のアパートは、まさに狭いながらも楽しい我が家。よく友達が遊びに来て一緒に鍋を囲んでいた。子どもと遊ぶのが上手な元夫は育児にも協力的だった。家族3人でいると本当に楽しくて、いつも娘のささいな言動に大爆笑していた。
しかし生活は楽ではなかった。元夫は結婚前から、資格取得の勉強をしており、必須5科目中、3科目は合格済であと2科目だと言っていた。資格の専門学校に通っていたので仕事をしていない時期もあったし、私が働かないという選択肢はもちろんなく、生活はいつもギリギリだった。
さらに1科目受かったから、残り1科目、というところまできたが、突然、元夫はもう資格取得は目指さないと言い出した。取ったところで仕事の役に立たないし、など歯切れが悪い。怪しいと思い今までの合格科目の証明を見せるよう迫ると、とうとう「合格科目はない」と白状した。
信じられなかった。
4科目合格していたというのは真っ赤な嘘で、実は1科目も受かっていなかったのだ。この時すでに結婚して7年。結婚前から嘘をつき続けていたなんて。
オセロの石が次々とひっくり返される
まさに人生にレモンを投げつけられた瞬間だったが、なぜか私の頭の中ではオセロの石が次々とひっくり返っていった。
元夫との出会いを遡ると、「年末年始ぐらい帰っておいでよ」という母の言葉をよそに励んだアルバイトだった。大切な両親の誘いを断ってまでしたその選択が正しかったからこそ出会えたと信じていたのに、あのときからすでに元夫は嘘をついていたのだ。
そもそも出会ったこと自体が間違いだったのか?と、すべてがひっくり返された気持ちになった。
私の両親は、専門学校の費用を貸すなど全面的に応援していたので、嘘を知り当然怒った。せめて両親に対してすぐに謝り、誠意を見せてほしいと思ったが、元夫はどうせ認めてもらえないから、と行動を取らなかった。
「すぐに離婚したほうがいい」と言う母と、「夫婦2人で話し合って決めるべき」と言う父が喧嘩をしたり、ストレスで母が脳梗塞で入院したりと、その影響は両親の健康にまで及んでしまい、ただただ申し訳ない気持ちになった。
離婚を決断
私も元夫も、娘がかわいすぎたのだろう。そんなことがあった後でも、家族3人でいれば以前のように楽しかった。
でも急務なのは、今まで出来なかった貯金だ。このままでは、娘を育てていくお金がない。
3人で暮らせる方法を探したかったが、このまま高い家賃を払って東京にいるより、離婚して九州の実家に帰って働くほうが、貯金は出来るだろうと悟った。
子どもを生むまでは子育てに苦手意識があったのに、娘がこんなにかわいく、楽しんで子育てが出来ているのは、元夫と一緒に育てているからだと思っていた。
私だけになって、それが出来るのか?という心配はあった。
数カ月考えた末、私の決断は、「離婚してそれぞれの場所でがんばる」ということだった。
私はさらに仕事に励んで教育資金を貯め、娘を育てる。元夫は態度を改め定職に就き、自立する。私達家族のために、やるべきことを整理した。
決断した日、1晩中、涙が出続けた。
楽しかった3人の暮らし、発覚した嘘、家族を巻き込んでしまったトラブル、今までのことを1つ1つ思い出し、それから、これからひとり親になる自分のことを想像していった。
はじめは順調だったがあっという間に滞った
元夫は離婚には反対したが、自分の責任ということは自覚していたので、話し合いの結果、協議離婚となった。
私は東京での仕事を辞め、娘と一緒に九州の実家に戻った。娘の保育園探し、私の仕事探し、久しぶりの地元。いったん決めた後は不安よりもワクワクする気持ちのほうが強かった。何より長い間、地元を離れていたからこそ、その良さを再発見できて、新鮮だった。
元夫は、月1回九州に来て娘と面会交流をし、養育費も毎月きちんと振り込んでいた。私なんで離婚したんだっけ?と拍子抜けするぐらい、最初は順調だった。
元夫がきちんと養育費を払える、ということは経済的にも精神的にも自立出来ている証拠。それが2年ぐらい続けば復縁できるだろうと期待していた。
しかしきちんと養育費が支払われたのは最初の数カ月だけだった。
それと並行して面会交流もなくなっていったので、娘はもう何年も父親に会っていない。
自分の人生で最高に幸せなこと
離婚を決めた私に、相談していた子育ての先輩が言った言葉は忘れられない。
「お子さんが年頃になったら、なんでうちはパパがいないのかと聞いてくるかもしれないけど、その時はごめんねじゃなくて、堂々と、私とあなたが幸せになるために離婚したんだよ、と言っていいからね」
それは本当だった。私ひとりで子育てを出来るのだろうか、という心配をよそに、娘が生まれたことは自分の人生で最高に幸せなことだと心から思える。事あるごとに娘にもそう言ってきた。
小学校でどうやって子どもが生まれてくるかを習ってきた日のことである。娘は目をキラキラさせて、私が今ここにいることはすごい奇跡的なことで、私はなんてラッキーな人間だろう、と大興奮していた。ママとパパが出会ってなかったら、何かが少しでも違っていたら、今ここに自分はいない、ママありがとうと感謝してくれた。
ああそうか、元夫と出会ったことは間違いだったんじゃなくて、あなたと出会うために必要だったんだね、とあらためて思えた。
レモンをレモンで終わらせない
当たり前だがひとりで子育てをしているわけではなく、娘と血がつながっていなくても関わってくれるすてきな大人はたくさんいる。
母娘2人でもいろんなところに出かけて行ったし、何より2人だけという小回りのよさを活かして周りの人にたくさん助けてもらった。2人ぐらいなら私の車に乗って行って!と乗せてもらったり、ほぼ満員になっていたイベントでも、2人ぐらいなら増えても大丈夫!とオマケで入れてもらったり。
離婚直後は家族連れを見るだけでも辛かったが、今は大家族もいいけど、母娘2人だってむしろ小回りが利いて、いい面もたくさんある。そんなふうに一見マイナスと捉えがちなことをどんどんプラスにしていった。
感情の扱い方を学ぶ
自分の産後にマドレボニータの産後ケア講座を受講していたこともあり、自然にシングルマザーズシスターフッドの存在を知ったことは私にとって大きかった。
離婚した当初は私の母親と娘と3人で暮らしていたが、後に娘と2人だけの生活になると、普段は仲良しそうにしていても、自分が疲れていたり余裕がなかったりすると、娘を怒鳴ってしまうことがあった。
叩くのはダメ、とわかっているので叩かないけれど、代わりにモノに当たってしまい、今までにドライヤーとフライパンを床に投げつけて壊したことがある。
自分の怒りをコントロールできなくなるのが怖いなと思っていたころに、シングルマザーズシスターフッドの「人生を豊かにするコミュニケーション講座(怒りのヒミツ、お願いのヒミツ)」を受講できたことは救いだった。
講座では、怒りは二次感情でその裏にある隠された感情を大事にケアすることの大切さを学んだ。例えば、私の場合は「寝る前に娘と一緒に絵本を読みたいから早く明日の準備をしてほしい」という想いがあるのに、娘がぐずぐずしていて時間がなくなったりすると、その想いが怒りの感情に変わっていた。
つまり、自分の想いが損なわれたことによる「さみしさ」からくる怒りなのだ。この「さみしい」感情を大事にして、率直に相手に伝える方法を教わった。
怒りの感情を持つことは悪いことではない、制御しなきゃと思う必要もないとわかり、ずいぶんと気が楽になった。
怒ってしまうことで自己嫌悪に陥っていた時期もあったが、今ではモノに当たることもなくなり、娘を急かすことも少なくなった。むしろ娘とかわす何気ない会話が日々楽しく生活するうえでかかせないものとなっている。
そうやって子どもと向き合っていると、なんだか自分も子ども時代をもう1回味わっているような気分になり、すごく得したなと思えるのだ。
晴れときどきレモン
この先の人生も毎日が晴れ、というわけにはいかず、ときどきレモンが降ってくることもあるだろう。でも娘を産んだことは私の人生にとって最高の出来事ということは変わらない。
持ち前のフットワークの軽さと楽観主義で、レモンが降ってきても、ぎゅうぎゅうと絞っておいしいレモネードに変えていこう。