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季節外れの牡丹園

急遽竹野へ行くことを決める。兵庫の北へ行くのは、これが初めてだ。姫路まで、山陽電車で移動する。姫路で乗り換えのため、1時間半ほど時間ができたので、姫路城を観光し、昼食を取ることにした。「帽子をかぶったら歩いてみよう」という作品が道端にあった。帽子をかぶった男の人が、サックスを吹きながら、歩いている姿を銅像にしたもの。とりあえず歩いてみるしかないよな、とひとりごち、おろしたての小豆色のポンポン付きのニット帽を被ったわたしは姫路城へ向かって歩いた。

姫路城は白かった。写真を撮っていたら、アジア系の男の人(ひとり旅をしているようだった)に「写真を撮ってくれ」と言われたので、3枚ほど写真を撮る。特に話はしなかったが、ひとりもの同士のかすかな絆を感じた。

「桜がつかれているので、休ませてあげてください」という看板があった。(写真1)まさか姫路城でこんな見事な擬人化に出会うとは思っていなかった。桜だって疲れるんだ。疲れたら休むんだ、そう思うとほっとした。


写真1

「些かの迷いもなく、力強くつらぬいている」大きな古い柱についての記載。

時間があまりなかったので、中へは入らなかった。私はひとつのものを見るのにたっぷり時間をかけてしまうので、(それはいいことだと思っているけど、たまに困ったことになる)姫路城を60分で回れるとは到底思えなかった、ので、桜の季節にリベンジしたい。

姫路城で1番よかったのは、季節はずれの牡丹園だった。控えめで若々しい牡丹の蕾。雨。遠くからきこえる微かな鳥の鳴き声と静けさ。ひとりになって、ひとりになりたかった、ということをようやく認められた。目を閉じて、しばらく静けさという音楽に耳を澄ませた。私の求めていたものはこれだ、と確信した。頭が求めるものではない。身体が求めるもの。自分と自然が溶け込んでいき、欲や嫉妬、羨望が消えていく。私は何もいらない。実のところ欲しいものなど何もなかった。今持っているもので充分だった。何もいらない。都会で暮らしていると、私は何も持っていない、という気がしてくるが、それは社会の巧妙な罠なのではないだろうか。静かにひとりで、(もしくは時々静けさを知っている人とふたりで)いられるならそれで充分なのだ。ただそれだけで。

お昼ごはんは、ベジタブルカフェ さくらさく というお店で頂いた。
(投稿のトップ写真)
クロダイのムニエル(その日とれたて、刺身でもいただけるような新鮮なものだそう!)、野菜のお惣菜4種(少し塩気のあるカボチャの煮付け、高野豆腐、白蕪の酢漬け、大根と里芋の煮物)、春菊と椎茸のお吸い物、さつまいもの乗ったごはん。そして、食後のコーヒーとほうれん草のシフォンケーキ。祖母の料理を思い出した。全部おいしかったが、(脳に刺激を与えるおいしさではなく、身体にじんわり染み渡るおいしさだ)特にクロダイのムニエルとお吸い物は特別おいしかった。ムニエルは、お酢と胡椒の味付けがきいていて、身はほしたてのお布団のようにふんわりと柔らか。飽きのこない味だ。お吸い物のだしも絶妙。春菊、椎茸、そして、おそらく金柑の皮、そのトライアングルが見事なバランスを保っている。いすもふかふかで、なんともまったりした空間だった。電車の時間があったので、少し急ぎ目に食べなくてはいけなかったが、今度はゆっくりしにきたい。姫路へ来て、お野菜をたくさん食べたいときにはぜひ行ってみてください。

今は、『特急はまかぜ』に乗っている。車内の椅子は落ち着いた赤で、座り心地もなかなかいい。なんだかシックな車内で、オリエント急行を思わせる。大学生らしき人たちが、楽しげに歓談している。普段「棺桶のような」静かな通勤電車に乗っているので、人々が話している電車に乗っているだけで、まあまあ楽しい。そもそも普段乗らない電車に乗るのはやはり楽しい。車窓っていいですよね、特にこれといって見応えのある風景があるわけでもないんですけど、景色が移ろいゆくのを見ているだけで、心が落ち着いていく。そういう人たちによって、『世界の車窓から』は支えられてるんでしょうね。


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