ちゃんこ鍋とやりいか
季節外れの牡丹園の続き。
無事竹野に到着した私は、夜ごはんを調達するため、雨の中15分ほどかけてスーパーへ行った。途中橋を渡ったのだが、周囲に光がない。四方八方真っ暗である。あんなに黒い水を見たのは生まれて初めてだ。その辺に死体が転がっていてもおかしくない、と思わせるようなくろさだった。小さくもそこそこ品揃えのあるスーパーでは、アルミの鍋に入ったちゃんこ鍋とやりいかの刺身とナッツを買った。宿に帰ってきてから食べたちゃんこ鍋とやりいかは本当に本当においしかった。ごはんを食べたあとは、2時間弱、本を読み耽っていた。共有スペースに畳と座椅子のあるスペースがあり、そこの居心地の良いこと!ゲストハウスのスタッフさんがちょうど見えない位置にいるので、ひとりで集中して本が読める。人と話すのも好きだけど、今回の旅はひとりになりたくて来たのだから、と私はその恩恵を存分に味わうことにした。15分ほどで読める短編をたくさん置いているスペースがあった。机の上にうどんとやりいかの器たちを置いたまま、私は夢中で本を読んだ。
『恋愛論』 坂口安吾
『朝飯』 島崎藤村
『メリイクリスマス』 太宰治
『パンの耳8号』 大阿久佳乃
『生きがいについて』 読みたかったが、読めなかった
気がついたら、消灯時間であった。
石油ストーブの上にあるやかんからお湯を湯たんぽに注ぎ入れる。雨、そして時折みぞれの屋根にあたる音をききながら、静かに眠りについた。
朝ごはんのため一階へ降りる。
ハタハタの焼き魚が2つ、活き活きとしたコールスロー、絶妙な味付けのピーマンとちりめんのお浸し?、中華風あんかけ。そして、ご飯と白ネギ・豆腐のお味噌汁。前日のやりいかがまだお腹にいるのを感じつつも、おいしく完食した。近くの白いカーテンをさりげなくめくってみたら、屋根に雪が積もっていた。
食後、『檸檬』を読む。この血迷って、追い詰められている感じ、なんかわかる気がする。生きることに対する失望、というか。何をしても楽しくない、というよくわからぬ感情。知らず知らずのうちに私たちは沢山のことを植え付けられているのだろうなあ、と思う。まだこの共感をうまく言葉にはできないし、生産的な方向へ結びつけることはできない。
☆
「海きれいだった!」ともう1組の宿泊客の方がおっしゃっていたので、期待値が上がる。お母さんと娘さん、大学の受験のため、宿泊されていたとのこと。お母さんの方と少しだけ2人でお話しした。
なぜ来たのか、というようなことをふんわり聞かれたので、「ずっと来てみたくて、時間が空いたので来てみたんです」と答えた。すると意外なことに(それまではとてもおとなしそうな親子に見えたのだ)、その方はとても目を輝かせて、「いいわねえ!女性にはそういう時間が必要よ、自由に行きたいところへ行く時間。」と言ったのだった。そのあとは旅の話をした。
ふたつのペットボトルに温かいお茶を入れて、「これをカイロがわりにしようと思うんだけど、いけると思う?」と聞かれたので、触って温度を確かめる。「充分だと思います」と、私は満ち足りた気持ちで答えた。
雪の日本海はとにかく美しかった。大声をあげて笑いたくなるような美しさだった。なんだか私はとんでもないところへ来てしまった。そのことがおかしかった。雪の少し先が浜になり、そしてそのさらに先が海。海は青さの中に黄色を蓄えていて、ざばさばと生き物のように朝の運動をしていた。その姿を静かに雪に覆われた木々たちが見守っている。太平洋、瀬戸内海、カリブ海、メコン川、ナイアガラの滝、梓川、いろいろな水を(Body of Water)を見てきたけれども、こんなに切実な美しさをはらんだ水の母体は初めてだった。なるほど、これが人を死に誘う力か、と妙に納得した気持ちになっだ。もちろん死にに行こうなどとは思わないけど、衝動的なエスケープをしにきた私にとって、この切実さは慰めとなった。
帰り道、先ほどのお母様に猫スポットがあると教えてもらったので、行ってみる。グレーのずんぐりとした猫。『おっとっと』という定食屋の前に座っている。戸口が開く。おじさんが出てくる。と同時に、猫は近くの車の下へ。おじさん曰く、茶色い猫がいるらしい。おじさんがお店へ戻ると、入れ替わるようにして、砂浜色をした猫がにゅるりと車の下から出てきた。こやつがなんとも人懐っこい。10分ほどしっかりと堪能してしまった。
猫のいる町はいい。
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