これから過ごしたい人生を漢字一文字で表すと?
先日、note仲間のキッシーさんが「エンディングノート」について書いていた。
「エンディングノート」というものの存在は、以前から知っていた。
いわゆる「終活」の一環。そこに書いておくのは、自身の死後の手続きに必要となる資産情報や様々な連絡先、あるいは葬儀やお墓に関する希望など。それと合わせて、そのノートを読んでくれるであろう親族や友人への感謝の気持ちなどを書いておくもの。
そう思っていた。
けれど、市販のエンディングノートでは、自分自身の過去を振り返ったり、これからの人生について考えたりするような流れになっているらしい。
キッシーさんのnoteには、エンディングノートに沿ってご自身のこれまでを振り返っていることや、そんなこれまでの歩みをあらわす漢字一文字などが、キッシーさんご自身の手による素敵な筆ペンの文字とともに綴られていた。
なるほど。
確かに、「書く」という行為の中でこれまでの記憶を辿ることは、過去にお世話になった大切な人を思い出すことにもつながる。それは、やり残したことは無いか・残りの人生をどう生きたいか、という自分自身の希望を明確にするにもつながるだろう。
過去をしっかりと振り返ることは、自分亡き後、伝えてほしい人たちの連絡先等の書き漏れを防ぐことにもつながるだろうし。
そんなエンディングノートについて書かれたnoteで、キッシーさんは、ご自身の人生ふりかえりの一文字として「過」という文字を書かれていた。
そして、『これから過ごしたい人生を漢字一文字で表すと?』という問いかけも。
自分自身の人生振り返りの一文字、かぁ・・・
キッシーさんのnoteを読んだ後、自分自身に問いかけてみた。
私がこのテーマで書くとしたら?
音?闘?球?
いやわかるけどちょっと違うだろ。それって音楽とかプロレスとか野球とか単に自分の好きなジャンルを表してるだけだし。
迷?惑?困?難?
いやいや確かに迷ったり戸惑ったりしたし苦しいことも困難なこともあったけど、そこまで辛いことばかりじゃなかったぞ。
ってか四文字合わせて迷惑困難って酷くないか?
頭の中にエラー音が鳴り響く。
その日は結局思い浮かばず。
けれど翌朝、ふと浮かんだ文字があった。
雑
あまり良い意味の漢字ではないかもしれない。
けれど、仕事と趣味とで雑多な日々を過ごしてきた私をあらわすのは、この文字のような気がした。
たくさんのものを、ごちゃまぜに楽しんできた。
雑然。
雑食。
だからこそ、目立たないけれど素敵なものや、場所や、人と、たくさん出会えた。そんな気がする。
また一方では、過去を振り返ると何事とも一つ一つにきちんと丁寧に向き合うことは出来ず、雑だったが故に結果を残せなかったのでは、という反省も。
楽しさと、反省。
そんなこれまでの自分をあらわす一文字は「雑」だと思う。
では、
『これから過ごしたい人生を漢字一文字で表すと?』
これは、すぐに浮かんだ。
穏
これから、というより、今現在の暮らしそのもの。
宮城に移住し、夫と暮らし始めてからの日々は、忙しくても心はいつも穏やか。悩みや苦労があっても、それはそれとして。
これからの人生も、いろいろなことはあるだろうけれど、心は穏やかでありたい。穏やかに暮らしたい。そんなふうに思った。
こんなふうに考えるきっかけをくれた、キッシーさんに感謝したい。
ここからは、余談だが、
私自身、市販のエンディングノートは持っていないものの、ここ数年はエンディングノートというものを気にしつつ日々を過ごしている。
紆余曲折を経て、今は夫とともに幸せに暮らしている私ではあるが、夫は私より年上である。
ありがたいことに、今のところ夫も私も至って健康。
とはいえ、人には寿命がある。
年齢差からいって、順番的には私は看取る側の人間。私がうっかりぽっくり先に旅立つ可能性はゼロではないが、自分自身が夫や夫の親族に看取ってもらえる確率は低い。
となると、万が一の時、どうなるか?
見知らぬ誰かに迷惑をかけたくは無い。
ましてや遠く離れた北海道で暮らす甥っ子や親類縁者に迷惑をかけるのも心苦しい。
けれど、誰かにお手数をおかけしてしまうのは、避けられないだろう。
ならばせめて、銀行口座や保険等の情報、それらの手続き方法だけでもしっかり書き記しておいて、手間をかけるであろう方々へのお礼とお詫びに、僅かでも残せるものを残さなければ。
そう思い始めて以来、私は文房具店や雑貨市、各地のミュージアムショップや近所の百円ショップまで、気に入ったデザインのノートを見つけては「これにしようかな?」と購入するようになった
しかし、穏やかな日々に慣れすぎて危機感が薄れてしまったのか、エンディングノートをなかなか書き始められずにいる。
そのくせ、きれいなノートを見つけては購入してしまうものだから、手元にノートが増えるばかり。
音楽活動をしていた頃は詩作で年に数冊ノートを使っていたが、今は休止中。
加えて、昨年からは日記的なものも、紙のノートではなくこのnoteに書くようになってしまった。
結果、モノとしてのノートは使わぬまま。
このままでは、単なるノートコレクターである。
エンディングノートであれ他の何かであれ、これからは、紙のノートに書くことも再開してみようかと思う。