3月の終わりに、ハヤブサ選手の思い出を
ハヤブサ、というプロレスラーがいた。
「シノブちゃん、プロレス好きだったよね?ハヤブサって知ってる?」
2009年11月。
当時、札幌でライブの主催等でお世話になっていたK子さんという方からの電話で、唐突にそう聞かれた。
当時の私は、仕事の傍ら各地のライブハウスで音楽活動をしていた。ギター弾き語りだけでの活動が主だったが縁あって地元のジャズミュージシャンと共演することも多く、K子さんとの出会いも共演したジャズミュージシャンからの紹介だった。
K子さんは、北海道内の様々なジャズイベントのプロデュースを手掛けていて、その界隈ではよく知られた存在だった。けれど、偉ぶったところが何ひとつ無い明るく優しい人で、異ジャンルのアマチュアミュージシャンに過ぎない私にも会うたびに気さくに声をかけてくれて、親しくさせてもらっていた。
けれど、直接電話を貰うのは珍しかった。
しかも、何故K子さんの口からハヤブサの名前が?
私は、動揺していた。
私が初めてプロレスを見たのは、今から40年ほど前。当時テレビで放送されていた全日本プロレス中継だった。
やがて三沢光晴選手(当時は2代目タイガーマスク)のファンになったこともあり、その後も見るのは全日本プロレスばかり。今のように、動画配信やプロレス専門のチャンネルなど無かった時代である。新日本プロレスと全日本プロレスのどっちが好きか、という会話で同級生と盛り上がることはあっても、その他の団体の試合を目にすることはなく、そもそも興味を持つ機会も無かった。
そんな私がハヤブサ選手のファンになったのは、彼が全日本プロレスにゲスト参戦するようになってからだった。
ハヤブサ選手は、日本のプロレス界でインディー団体の草分け的存在とされている、FMWというプロレス団体の所属だった。
けれど、リング上のハヤブサ選手は、全日本の選手と並んでも決して見劣りしなかった。
体格だけでは無い。
何より、その動きが、試合内容が、とんでもなくカッコ良かった。
初めて会場で試合を観戦したのは、1999年5月2日 東京ドーム。
その年の1月31日にジャイアント馬場さんが亡くなられ、馬場さん引退興行として開催された大会だった。
ハヤブサ選手が参戦したのは、みちのくプロレスのザ・グレート・サスケ、タイガーマスク(現在は新日本プロレスのリングに上がっている4代目タイガーマスク)とタッグを組んでの6人タッグ戦。対戦相手は小川良成、マウナケア・モスマン(現在の太陽ケア)、垣原賢人だった。
凄い試合だった。
選手6人の動きが息つく暇もなくめまぐるしく、激しく、どこを見ていいか分からないくらいにリング上でもリング外でも選手が飛び交う。その中でも、ハヤブサ選手の動きは目を引いた。
試合は、30分時間切れでゴング。
30分があっという間に感じたのを、今も覚えている。
東京ドーム大会の翌月、中島スポーツセンターでの全日本プロレスの大会にも、ハヤブサ選手は参戦していた。
みちのくプロレスの新崎人生選手とのタッグ。
東京ドームより小さな会場ゆえに動きの速さも高さもダイレクトに伝わってくる。
カッコよかった。
感激した。
より一層ファンになった。
メジャー団体だけが凄いんじゃない。インディー団体にも凄い選手はいるんだと私に教えてくれたレスラーの中の一人が、ハヤブサ選手だった。
ハヤブサ選手という存在を知らないままだったら、もしかしたら、DDTや大日本、みちのくプロレスを楽しんでいる今の私は存在しなかったかもしれない。
けれど、そんなに感激したのに、ファンになったのに、私はハヤブサ選手が所属する団体の試合に足を運ぶことは無かった。
全日本への参戦が途切れて以降、私がハヤブサ選手を目にするのは、プロレス雑誌の記事を通してだけになった。
そして、2001年10月22日。
ハヤブサ選手は、試合中のアクシデントによって頸髄を損傷。
命は助かったものの、一時は全身不随となる重傷だった。
ハヤブサ選手は、長い欠場に入った。
冒頭に書いたK子さんからの電話があったのは、そんな時だった。
「知ってます、けど、今ハヤブサは欠場中で・・・」
K子さんからの電話に動揺しながら、私はそう答えた。
今でこそ職場でも音楽関係の場でもプロレスが好きだと当たり前のように公言している私だが、当時は人前であまりプロレスファンだとアピールしてはいなかった。
プロレスファンの女性を意味する「プ女子」という言葉もまだ無かった頃。当時は、プロレスというものに対する偏見が今以上に強かった気がする。
たまに打ち上げ等での話の流れでプロレスが好きだと口にしたことはあった。けれど、そんな時も奇跡的にその場にプロレスファンがいれば盛り上がりはしたが、多くの場合は茶化された挙句に聞きたくもない言葉でプロレスそのものを揶揄中傷されるのが常。
それが嫌で、当時の私は一人そっとプロレスを楽しんでいた。
何故知っているのだろう?
K子さんは、決して他人の趣味を茶化してくるような人では無いとは分かっていた。
それでも、過去の経験から、つい警戒してしまう自分がいた。
けれど、
「ハヤブサ、好き?」
K子さんの声は、真剣だった。
「好きです。」
私がハッキリとそう答えると、
「良かったぁー!」
電話の向こうの声が、いつもの明るく元気なそれに戻った。
そして、
「今日チケット取りに来れる?明日ライブなんだって!」
「え?ライブ??」
「ハヤブサさんの!OYOYOで!」
「・・・どぅぇぇぇええっ?!」
大急ぎで指定された場所に向かうと、K子さんは満面の笑みで1枚のチケットをくれた。
チケットには、そう書かれていた。
電話で聞いてはいたものの、信じられない思いで食い入るようにチケットを見た。
ライブ?
ハヤブサが?
「もらったんだけど、私、プロレス詳しくないから。
札幌でハヤブサさんのライブって、今回初めてなんだって。
せっかくなら、本当に好きな人に見てもらった方がいいと思って。
それで、シノブちゃんに声かけたの。」
K子さんの言葉に、泣いた。
K子さんは、自分自身がプロレスファンでは無いからこそ、プロレスファンの思いを汲もうとしてくれていたのだ。
私は一瞬でも身構えてしまった自分を恥じた。嬉しいのとありがたいのとで、めちゃくちゃ泣いた。
「ほら、泣かないのっ!泣くのはライブ見てからにしなさいっ!」
そう言って笑いながら私を叱りつけるK子さんに何度も何度もお礼を言った翌日、私は初めて「シンガーソングレスラー」としてのハヤブサ選手のライブを見た。
ハヤブサ選手が、車椅子とはいえ、人前に出られる状態になったこと
歌えていること
目の前で、その声で、歌ってくれること
ただそれだけで、奇跡のように凄いことだった。
けれど、それだけじゃなく、単純に、その歌そのものやその歌声そのものが本当に素敵で、魅力的で、楽しくて。
ライブ後、会場でハヤブサ選手のCDを買った。ハヤブサ選手のCDを目にしたのは、その時が初めてだった。
『シンガーソングレスラー』というそのCDに、ハヤブサ選手はその場でサインをしてくれた。
その時のやりとりと、交わした言葉は今も忘れていない。
ハヤブサ選手が亡くなったのは、それから6年4ヶ月後。
2016年3月3日のことだった。
ハヤブサ選手が亡くなったと私が知ったのは、2日後の3月5日。ネットのニュースでだった。
早すぎて、信じられなくて、信じたくないのに悲しくて、知った時は目から涙が吹き出した。
今も悲しい。
そして、悔しい。
もっとたくさん試合を見に行けばよかった。
もっとライブを聴きに行けば良かった。
後悔は、山のようにある。
でも。
今は、ハヤブサ選手と同じ時代を生きられて良かった、とも思う。
そして、あの時のK子さんのおかげで、プロレスラーとしてだけでなくシンガーとしてのハヤブサにも出会えて、本当に良かった。
会えた。
感動出来た。
その記憶は自分にとってかけがえのない財産で、それがあるからこうして書くことも出来る。
何より、あれほどの重傷を負いながらも人前に出て活躍し続けた姿、最後までリングに戻るという希望を失わずリハビリに励み続けた姿は、自分の中で目標になっている。
ハヤブサが旅立ってから8度目の3月が終わる。
さぁ明日からも頑張ろう。