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7.16私は初めてのDDTプロレスリング観戦でゴージャス松野選手を応援してくる


 小学生の頃、テレビで全日本プロレスを見て、プロレスを好きになった。


 夕方のテレビから深夜のテレビへ。そして、会場観戦へ。子供の頃から年齢を重ねるごとに観戦スタイルは変わりつつも、私が見てきたのは全日本プロレス、そしてそこから派生したプロレスリング・ノアの試合が中心だった。当時の地元・札幌での大会に足を運び、時には東京まで観戦に行ったりもしていた。
 そんな私が他団体を見るようになったきっかけは、転勤に伴う北海道内での移住だった。

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 宮城に移住してくる前、私は北海道内の地方都市に9年間ほど暮らしていた。
 オホーツク海側のその街は、札幌から300kmほど離れたところにあった。転勤後の私は仕事もプライベートも忙しさを増し、プロレス観戦のためだけに札幌や東京まで足を運ぶ余裕は無くなった。
 しかし、移住してしばらくした頃、私はその街や近隣地域にプロレスファンが多いことに気が付いた。
 移住した年の秋。地元の企業や商店街の主催による大日本プロレスの大会があった。誘われて足を運んだ私は、その試合を見て、一気に大日本プロレスのファンになった。
 通常のプロレスルールにのっとったストロングスタイルの試合だけでなく、凶器攻撃アリのデスマッチもあるのが大日本プロレス。それまでの私は王道系のプロレスしか知らず、デスマッチに対しては偏見を持って「食わず嫌い」ならぬ「見ず嫌い」していた。
 しかし、そんな私がその試合を初めて生で観戦し、文字通りの命がけのファイトスタイルにすっかり引き込まれてしまった。
 いや、試合内容だけではない。
 私が凄いと思ったのは、セコンドの若手選手たちの姿だった。
 セコンドと呼ばれる人達の主な仕事は、選手のサポートと言っていいだろう。ボクシングであれば、あしたのジョーの丹下段平のようにトレーナーが務めているのをテレビのボクシング中継等で見たことのある方も多いかもしれない。プロレスではトレーナーではなくタッグパートナー等の選手がセコンドにつくことが多いが、ボクシング同様、基本的には選手のサポートが主な役割だと思っていた。戦う選手とともに、あるいは少し後ろから入場したセコンドの選手達が、試合中はリングの下から選手に声を掛け、試合が終わった瞬間にリングに上がって選手のケアをする。そんな場面をいつも見ていた。
 けれど、何が起こるか分からないデスマッチ。その日のセコンドの選手たちがサポートしていたのは、リング上の選手だけではなかった。
 試合中、セコンドの選手たちは、真剣な表情で試合を注視していた。そして試合が場外に展開しそうになると、即座に周辺の観客に被害が及ばぬようにと声をかけ、時には身を挺して観客を守り、安全なほうへ誘導してくれた。そして、リング周辺に凶器や蛍光灯の破片が飛び散れば、それらをもの凄い速さと手際の良さで片付けていた。
 そんな姿に、私は惚れ込んだ。
 リング上の戦いだけではなく、プロレス会場そのものをしっかりと守る大日本プロレスのレスラー達のプロ意識は、たまらなくカッコ良かった。

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 大日本プロレスは、年に数回必ずその街に来てくれていた。当時、テレビを持たず、ネットや週刊プロレスをこまめにチェックすることも無くなっていた私にとっては、年に数回のその試合が唯一のプロレス観戦の機会だった。大都市だけでなく地方の小さな街のファンも大切にしてくれる団体の姿勢はとてもありがたく嬉しかった。

 暮らしていた街での試合は必ずデスマッチが組まれていた大日本プロレスだったが、車で30分ほどの隣町での大会は、何故かデスマッチが無かった。
 ある時、仕事終わりに間に合いそうだったので隣町まで車を走らせ当日券で観戦しにいった私は、その理由がなんとなく分かった気がした。
 会場には、子供がとても多かったのである。ちょっとビックリするくらい。
 その日の大会では、休憩時間には子供プロレス教室も開催されていた。プロレス教室でリングに上がりはしゃいでいた子供たちは、試合後は「アブ小さーん!」とアブドーラ小林選手の名前を呼びながら手を振って駆け寄っていった。アブ小選手は、子供達のヒーローだった。
 それだけではない。まるで親戚の子供に接するように若手の選手達に話しかけるご高齢のファンの方々の姿も、あちこちで見られた。もう何年も前から大日本プロレスの興行が開催されてきたというその街では、子供からお年寄りまで幅広い年代の人達が大日本プロレスに親しみ、プロレスを楽しみ、選手達を全力で応援して楽しんでいるのが伝わってきた。
 勿論、試合は全て真剣そのもの。流血するようなデスマッチが組まれていないだけで、後半は激しい試合展開の連続だったし、だからこそお客さんの応援にも熱が入っていた。

 昭和のプロレスって、こんな感じで盛り上がっていたんだろうか。

 私も昭和の生まれではあるのだけれど、地元の人達と一緒に盛り上がりながら、そんなことをふと思ったりもした。

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 大日本プロレスのファンになり会場に足を運ぶようになってから、地元にも、近隣の街にも、プロレス繋がりの友人が増えた。
 移住から何年目だっただろうか。近隣の街で、地元プロレスファン主催によるプロレスの大会が開催されることを知らされた。
 しかも、今度は全日本プロレス。
 車を走らせて向かった会場には、たくさんの笑顔があった。
 プロレスリング・ノアの旗揚げ以来、全日本プロレスの会場から足が遠ざかっていた私は、試合開始前の会場内に和田京平レフェリーの姿を見つけて感激のあまり泣きそうになった。泣き顔を見られぬように慌てて横を向くと、目が合った隣の席の人も同じく涙目の半泣き状態で、初対面にもかかわらず互いに泣き笑い。その後は一緒に試合観戦を楽しみながら、休憩時には古参ファン同士で思い出に花を咲かせたり、全日本以外のプロレス団体の話題を周囲のお客さんたちに教えてもらったりもした。
 プロレスファンを名乗るのがおこがましいほど新しい情報に疎く、プロレス観戦数も少なくなっていた私に、周囲の人達は皆、優しくあたたかかった。
 会場に集まっていたのは皆、「プロレスファン」だった。


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 今振り返ると、あの街の、あの地域の人達にとって、年に数回必ず来てくれるプロレスは地域に根付いたお祭りのようなものになっていたのかもしれない。
 私はあの街で暮らした9年間で「プロレス」というものの楽しさと凄さにあらためて気づくことが出来た。
 それまで以上に、プロレスを好きになれた。
 あの街を離れた今、あの時の盛り上がりを振り返って、そう思う。

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 地方都市でのプロレスの盛り上がりや街の人達の思いを知ってから、過去の自分を振り返り、反省したことがある。

 札幌で暮らしていた頃の自分は、プロレスを観戦出来るのは「当たり前」だと思っていた。
 どの団体も、北海道に来る際は札幌で必ず試合を組む。それが当たり前で、「プロレスを見に行く」のではなく「好きな団体の大会を選んで見に行く」のが日常だった。
 札幌での大会では、週刊プロレスで大きく取り上げられるようなビッグマッチが組まれるのも当たり前。だから、メインの対戦カードが自分にとって魅力的なものでなかった時などは「(注目カードは)後楽園ホールばっかりかよ!」と、直接口にすることはなくとも心の中で文句を言う。
 そんな横柄さ・傲慢さが、あの頃の自分の中にはあったと思う。


 有名であろうとなかろうと、どの選手も、どの団体も、真剣にリングに上がっているのに。

 プロレスの試合を観戦出来ることの幸せとありがたさに気付いていなかったあの頃の自分を、今は、反省している。


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 そして、もうひとつ
 今の私は、過去の自分を振り返って反省していることがある。


 現在の私は、宮城県内で夫と二人で暮らしている。
 夫もプロレスファン。そして、インディー団体の試合を放送するケーブルTVチャンネル「サムライTV」を長く視聴契約している。
 夫と暮らすようになってから、晩酌時や休日は様々なインディー団体の試合をテレビで見るようになった。北海道でファンになった大日本プロレスだけでなく、エンターテインメント色が強いDDTプロレスリングや地元・みちのくプロレス、そしてセンダイガールズプロレスリングをはじめとする女子プロレスも。
 見るたびに、好きな選手が増え、好きな団体が増えた。


 そんな日々の中で、私はあるプロレスラーに対して、一般メディアが流す偏ったイメージを信じ込んで勝手に偏見を持っていたことを反省するようになった。

 過去がどうであれ、今、その人がどんなに真剣にプロレスに打ち込んでいるか。どれほどの努力の末に肉体改造を成し遂げて、レスラーとしてリングに上がり、戦っているか。
 サムライTVのテレビ中継に映し出されるその人のプロレスラーとしての姿は、それを私に教えてくれた。

 それが、ゴージャス松野選手。
 



「松野さん、凄いんだよ。ちゃんとプロレスラーになってる。」

 私がサムライTVで初めてDDTプロレスリングの試合を見る時、夫は私にそう言った。
 夫の言葉を信じないわけではなかったが、それでも私の心の中には「えぇ?でもあのお騒がせの人でしょう?」という疑念があった。
 けれど、リングに上がったその人を見て、夫の「ちゃんとプロレスラーになってる」という言葉の意味が分かった。
 細身ではあっても、しっかりと筋肉のついた身体。そして、動き。
 失礼を承知で正直な感想を言えば、その時見た試合での松野選手は、プロレスラーとして「強い!」「カッコいい!」と感動し惚れ込むほど魅力的な闘いを見せてくれたわけでは無かった。試合展開自体も、その日見た試合はどちらかといえばコミカルなものだったように記憶している。
 それでも、そこにいたのは、まぎれもなくプロレスラーだった。
 ゴシップでワイドショーをにぎわせていた過去の人ではなく、「プロレスラー・ゴージャス松野選手」だった。

 
 それからも、TVを通してではあるけれど、度々松野選手の試合を見た。
 ちょうどコロナ禍で各団体とも大会の中止も多かった時期。過去の試合の再放送も多く、松野選手がプロレスの世界に飛び込んでからの試合の数々をサムライTVで見ることが出来た。
 見れば見るほど、真剣さが伝わって来た。

 そもそも、プロレスは軽い気持ちなどで出来るわけがないのだ。
 一度や二度ならともかく、あのリングに立ち続け、リングの上で生き続けることを許されるのは、ほんの一握りの選ばれた人だけ。

 松野選手がリングに上がり続けているという事実が、全ての答えだと思った。
 私は、誤解していたことを申し訳なく思った。

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「今年の誕生日プレゼント、福島にプロレス見に行く?」

 6月中旬のある日、いつものように夫婦で晩酌を楽しみつつTVでプロレスを見ていた際、先に書いたような松野さんへの思いをぽつぽつと夫に話したところ、夫からそう言われた。
 私の誕生日は7月上旬。少し前から夫は私への誕生日プレゼントにどこか宮城県内の温泉にでも、と言ってくれていた。
 それが、突然の福島である。
 しかもプロレス。
 頭の中が疑問符だらけになった私に夫は続けて言った。

「7月16日に福島で松野さんの還暦祝いとデビュー20周年の記念大会があるよ」

 ビックリ。
「松野さんって還暦なの?!ってか、もう20周年なの?!」
「ホントは一昨年が還暦で、去年が20周年だったんだよ」
 コロナ禍で延期されていた二つのお祝いを兼ねて、松野選手の地元・福島でDDTの大会が開催されるという。

 断る理由は何もなかった。


 というわけで、7月16日、私は初めてDDTプロレスリングの会場に足を運び、プロレスラー・ゴージャス松野選手の試合を生で見てくる。
 おめでとうございます。
 ごめんなさい。
 ありがとう。
 そんな、これまでの全部の思いを込めて、私は客席から松野選手に全力で声援を送り、初めてのDDTプロレスリングを、そして久しぶりの「会場でのプロレス観戦」を楽しもうと思っている。


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