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背中側の世界

僕が前に向いているから
僕の世界は前にしかない。

背中側で何が起きているのか、
僕は知らない。

眼を開けてみている世界を信じているけど
眼を閉じたときにはじまる世界が無いとは言えない。

瞬きしたそのときには
空は青から、黒く変わっているかもしれないし
瞬きしたその時の僕はVRのなかの幻かもしれない。

生まれてこの方、生きてきた記憶はある
でも誰かが、もっと大きな天井から僕を見下ろして、
僕を描いているのだとしたら

僕が選ばなかった背中側にも
何かのストーリーができていたのではなかろうか。

今起きていること。
僕がここで書いているときに、レバノンではミサイルが飛び
ハワイでは波間に漂うウミガメがいて、
僕の家ではアンジーが眠っている。

それぞれが、今起きていることを選択しているのに
なぜすべてがつながるのか?
どんなに、どんなに移動手段が進化しても
同時に同じ場所には立てない。
時間は、縮められても無くすことはできないから。
瞬間的は同時と同じじゃない。
僕はここで書いている限り、レバノンのミサイルの下には
いけない。

今僕がここで書かない時に、レバノンでミサイルが飛ばず
ハワイで波間にウミガメがいない
僕の家ではアンジがーが起きている。

そんな、背中側の世界がいつもあるのではないか?
ぼくはそう思ってしまう。

真剣に願ったことが
背中側の世界に属する結果だとするときに、
僕らは、その方法を、自覚するはできない「なにか」で
背中側の世界に移動できるのではないか?

それが「奇跡」なのではないか。

なんの共通した連絡手段もないのに
勿論約束したわけでもないのに、
ともにそこに居たかのように、相手を思う気持ちの通り
何かが動く事を僕は経験していて、
そのとき僕は奇跡を感じて、

その奇跡は、僕の背中側の世界にあったんだと
感じるのです。

背中側の世界=僕が行かなかった世界。

僕が行かなかった世界は無いのではなく
僕の行動と関係なく、僕のちょっと先か
ちょっと後かで成り立っているのではないでしょうか。

そんなことを感じているので、書いてみました。












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川崎とーちゃん
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