正しく怖れて現実を変える
情報によって、感情が揺さぶられることは多々あります。
不安や恐怖は、抱え込んでしまうとそれを現実として引き寄せてしまう。
けど、それは確かに感じるもの。
不安や恐怖によって、その通りの現実を引き寄せてしまうのには、2つのパターンがあります。
ひとつは、まだ起きていないのに、それが今起きているかのようにパニックを起こして、それによる行動で余計に事態を悪化させてしまうパターン。
もうひとつは、そのネガティブな思考から逃れるために、自分の中にある不安や恐怖を見ないようにして、無理矢理にポジティブを演じて何もしないこと。
両者ともに、行動としては全く逆のことをしていたりしますが、本質的にはどちらも同じで、どちらかと言えば後者のほうが危険だったりします。
前者は、そのネガティブな思考があることを認識しているだけまだましで、後者のようにそれを見ないように蓋をして、抑圧したままにしているほうが、その現実を引き寄せやすくなります。
では、どうすればいいのか?
答えは。
正しく怖れることです。
量子力学の理論でも、抑圧して抱えたままにしていたほうが、現象として現れやすくなるとされています。
確かに不安や恐怖を感じている場合、どうすればその現実を遠ざけることが出来るのか。
正しく怖れることが、その現実を遠ざけてくれ、別の世界線へ向かっていけることについては、さとうみつろうさんが動画でわかりやすく説明してくれています。
YouTubeのホームから「南海トラフ さとうみつろう」で検索しても出てきます。
「本震までにバイアスを外せ」
というサムネ動画がすぐ見つかると思うので、正しく怖れて現実をシフトさせる理論を理解したい方は、聞いてみて下さい。
私自身、みつろうさんのお話で、「現実を変えるために怖れていい」という逆説にも思える理由に納得がいきました。
抑圧することによって、それはさらに拡大されて、現実として引き寄せられるというのは、やはり陰と陽、ネガティブとポジティブを真ん中から見ておくべき視座から外れているからなのでしょう。
不安や恐怖というものは、生存するために必要な感覚で、それを見ないようにしたところで、抱えたままになるか、いつまでもどこまでも追われたりします。
それらのネガティブな感情は、「闘争か逃走か」の思考を生み出すとされ、そのどちらかを選択しないといけないような感覚を引き起こします。
ここが、少しだけ危険な要素があり、そのまま受け取ってしまって、その感情に動かされてしまうと、その現実が訪れるよりも前に、ずっと早く別の「災い」を引き寄せてしまったりします。
まだ何も起きていないのに、あたかもそれが今目の前で起きているかのように錯覚し、動くことによって、事故を起こしたり、怪我をしたり、考え込んでメンタルを病んで疲れきってしまったりして、本当にその時のために残しておくべきエネルギーを、先に消耗してしまったりします。
もちろん、「備えあれば憂いなし」「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があるように、今やれること、出来ることはやっておくことも大切です。
ですが、自分ではコントロール出来ない範囲にまで意識を広げて、どうにもならないことにまで心煩い続けると、ネガティブの檻から抜けられなくなります。
不安や恐怖は確かにあるものとして、やるべきことはやっておき、そこからそのネガティブな思考を切り離しておくところが最も難しいところなのですが、これについては以下の動画を参考にしました。
たまたま聞いていたもので、ナレーションはAIによる音声てすが、内容はしっかりしています。
意識の中で視座を変えておくこと。
感じているものに蓋をせず、それは確かにあるものと認識しながらも、それに囚われないポジションをキープする方法。
絶妙なバランスを必要とする難しい哲学ですが、僅かでも心は軽くはなります。
それは本当に自分の感情、感覚なのか?
それはどこから来るのか?
本当に不思議なものなのですが、今の自分が「怖れているんだな」と認識するだけで、心は落ち着くようです。
これは、マインドフルネス瞑想でも用いられる手法で、思考や感情をただ観察するだけというもので、ネガティブなものに引き込まれてエネルギーを消耗しないための技術です。
参考になるものを2つ紹介しましたが、どちらも共通していることは
・怖れていい
・抑圧しない
というところです。
人々の感情が抑圧され、それがピークを迎えることによって、天災が引き起こされるという逸話もあるほどなので、想いの力というのは、どこまでも不思議で、恐ろしくもあり、素晴らしい奇跡のエネルギーでもあります。
この宇宙に、良いも悪いもありません。
正解はありません。
だからこそ、全てが正解です。
あなたなりの正解を、心が安心する場所を、しっくりくるポジションを見つけ出してみて下さい。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。