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[小説] 『鱗』〜21話〜22話。突然の出来事だった。でも、其処には、未来を照らす光がさしていた。
21話
啓介はホッと出来る『自分だけの世界』があった。
そう秘密の場所と言っても良い。誰にも言わずにいたその場所は、日比谷線の広尾で降りると直ぐの所にあり、『有栖川公園』の山の上池に沿った、そこそこきつい坂を登った所に、昭和48年に完成した図書館が秘密の場所だ。
男子は子供の頃から、何かにつけ、秘密基地を持ちたがるのかも知れず、朝10時丁度に門が開くので、それに合わせて度々、訪れては色々な本を開いていた。
公園の中を、季節季節の風を感じて歩くのも、それも其れで性しょうに合っていたし、誰にも邪魔されず、人数ひとかずが多いとも静かになれる。
それは、自ら本屋に出向く事無く、それこそ本は幾らでもある訳で、就職浪みたいな状況からいち早く脱却せねばと、多少の焦りも感じていたし、何処へ進むべきかそんなヒントを、図書館で探していたのかも知れない。
その日も、やや湿ったホームに降り、秘密基地に向かって歩き始めていた。常日頃思っていた、どうして、広尾は外国人が多く住んでいるのだろ。有栖川公園に来ている家族連れの半分は、外国人のように思える。当然と言えば当然で、日比谷線のホームにある道案内の掲示板には駅周辺に、15ヶ国の大使館があるのだ。
そこで働く外国人も数多くいるのであろうし、同時にシンプルに日本人よりも、休日を家族で過ごす公園が大好きなのだろう。
そしてこの図書館に来るのには、もう一つの理由があった。それは西麻布のバイト先に行くのに好都合の場所だからである。西麻布は場所的にとても不便な所で、常日頃バイトに行くのには結構大変なのだ。
広尾から歩いても六本木から歩いても、あまり変わらない距離なので、まー、そんな訳で広尾に落ち着いたのかも知れない。
その日もいつもの様に、図書館を出てバイト先の『BAR』に向かって歩く事15分位だろうか、その『BAR』は、お洒落な店として隠れた名店にもなっていて、杯売りのワインやシャンパンが飲め、中々お目に掛れない様な銘柄やヴィンテージ・ワインも気楽に頼めるのが受けて、そこそこ繁盛もしていた。
店の経営者の吉野は、モルトウイスキーも大好きで、特に珍しいシングルモルトを色々と、集めて来ては自慢していた。
啓介も然しかりで、ワインの品種やら醸造方法、モルトの地域や蔵元等々を、その辺をしっかりと勉強していたので葡萄や産地を学ぶのに、格好の相手になっていたのも確かで、翌月にはソムリエの試験も控えていた。
スタッフが5人いる中では下から2番目のポジションだが、お客受けは一番だろうと、吉野も感じていた。而も、その指先の表現が大胆かつ繊細で、酒を注ぐ際の一連の動きなどは、店で一番綺麗だったに違いない。
定休の日曜日以外は、大体16時には店の鍵を開けて、準備を始めるのが日課として、
若い肉体(からだ)なので深夜2、3時まで、休みなくカウンターの中に立っていられた。カウンターに座ると世界中の希少な酒が並び、そこにはちょっとした仕掛けがあり、棚の一部が引き戸になって、而もその中に隠し部屋があるのだ。
それは007でショーン・コネリーが扉を開けて出て来るかの様で、仕事をしながらでもちょいちょい、安心してご飯が食べられる設計に、お客も従業員も感心していた。
その日もそろそろ店を閉めようと、片付けを始めた時に、青味がかった鉄平石の階段に、比較的尖とがった靴音が聞こえる。
結構酔っていたと思う、そんな足取りの3人の来店に、シャンパンを注文しながら、『知り合いがい来てるんだよね!、ココは』
『そう、皆んなで飲もうよ!』
カウンターには理路整然とした細身のグラスが一列に並ぶと、啓介はローランペリエのロゼを泡が、溢れそうで溢れない、何か命を繋ぐ束ねた絹糸の様に注ついでいた。
「注ぐの、上手いねー、君は!」
「有難うございます、6人だと一瞬ですね」
「もう一本お持ちいたしましょうか?」
「そうだね、違うのに替えてよ」
最初に値段の事は話していたので心配はしていなかったが、揉めると嫌なので、きちんと金額を伝えて『良いよ!』を待っていた。
「今あるのが、ゴッセとティタンジェなんですが、どちらにしますか?」
「じゃー、ゴッセかな」
「あ、はい、ちょっと冷えが甘いかも知れないので、少し冷やしましょうか!」
「お住いは、お近くなんですか?」
「バラバラだけど、一人が広尾に住んでるね」
何でも知り合いが常連らしく、いつも話を聞いていたと言って、巨峰の種を器用に出してから、口に運んでいた。
「遠藤さんよ!遠藤さん」
「はいはい!、判ります、昨夜もいらっしゃいましたよ!遠藤さん」
「そうなんだ!呑むよねー、あの人!」
「はい、確かに、呑むし飲ませるしで、ホント良いお客様ですよ!」
西麻布や高樹町には、その手の看板の無い怪しそうな店が5、6軒あると思う。訳ありな感じの人達が、夜な夜な美味しい酒と粋な出会いを求めて、何処からとも無く寄り添う様に、集まっては艶っぽい話に花を咲かせていた。
そんな中、客の一人にほぼ毎晩のように、カウンターの真ん中央に座る常連がいる。
名刺にはアメリカの、最も有名な会社の一つに挙げられるコンピューター関係のエンジニア、仕事柄なのか、比較的遅めの時間帯の横井さん。
独身貴族で仕事の事は余り語らず、アメリカの会社にいるのに英語が全然喋れないと、妙な自慢をしていた。
『BAR』に集まる人達は、世間ではまだまだ珍しい、移動電話を持っている確率が高く、横井さんもその一人で、時にはお店が跳ねてから、ご飯に連れって行ってくれたりと、34、5歳にしてはとても綺麗なお酒の飲み方をする人で通っていた。
啓介も、そろそろ25歳を迎えようとしていた。経営者42歳本厄の吉野が、給料日に、こんな事を言っていた。
「来月の上旬に香港に行こうと思ってるんだけどさー」
「アイラ島のシングルモルトの、珍しいヴィンテージがあるんだって!」
「へー、そうなんですか?、あっ、そうかイギリスの植民地ですもんね」
「良かったら一緒に行くか?」
「行きたいっす!」
手頃のパックツアーと言えども、啓介の分まで支払うと、題して、2泊3日香港仕入の旅が始まったのである。
シンガポール航空の朝早い便で、啓徳国際空港に着陸すると、到着ロビーは人集ひとだかりで出迎いの人やプラカードが見受けられ、ターミナルから出た瞬間、強烈な湿気に卒倒しそうになると、9月の香港はまるでサウナの様に、尋常では無い汗が滴(したた)り落ちていた。
ハンカチで拭いた汗などどこ吹く風、変色したビショビショのハンカチでは間に合わない、まず持って汗の量が違うのだ。ダラダラと止まらない汗、お風呂用にと一枚持っていた、普通に銭湯にもあるタオル、お歳暮の信用金庫の名前入り、降り立つ早々役に立っていた。
グランド・オープン仕立ての真新しいホテル、日航香港にチェックインを済ませると、荷物も解かず、早速酒問屋に向かってガイドブック片手に行動開始と相成った。
情報は唯一『尖沙咀』の駅から『地下鉄』の『西鐡線』に乗り、終点の『屯門駅』に、その酒問屋はあると言う。
「へー、吉野さん、椅子がステンレスですよ」
「あーあ、ホントだ、へー、変わってるよなー」
「何だか、お尻が滑りそうだと思いません?……」
「あれ?どうしました?吉野さん」
「あれ、無いんだよー、切符、あのテレホンカードみたいなの」
「マジっすか」
「あ!、あったあった、おー、良かったー、こっちのセカンドバックに入れたんだ!」
「よかったですねー、あって」
一瞬焦った吉野を他所よそに、地下鉄は目的地に向かってひた走る。
「あれ、啓介さー、降りる駅って、何だっけ?」
「あれ、言ってましたよ吉野さん、終点って」
「あっ、そうか終点か、何だかなー、良く判んないよなー」
「まー、日本だって電車の事判らないですよね、吉野さんは」
「でもさー、揺れないよなー、これ」
そもそも基本的には情報は全く無いのに、良くぞ来たものだ。全てが初めての事なので、心配を大幅に通り越し、そのまま中国大陸を通過してモンゴルの大草原まで届いたのかも知れず、駅前にいる人に訊ね歩くも、目指す住所を見せた所で、言葉は通じず見当も付かず、迷子になりそうなギリギリの所、やっとの思いで辿り着いた。
酒問屋に着くと、これまた英語が話せる人がたまたま外出しているらしく、広東語しか判らないと言うのだ、これまた困って、身振り手振りで説明したりと四苦八苦の末、ようやく目指すモルトとのご対面となったのである。
「参りましたね……」
「ホント、先が思いやられるよな……」
それは普通にある透明なボトルではなく、真っ黒なガラス瓶で出来ている。
肝心の中の酒が見えないのだ。中身が見えないボトルで手作りで吹いた様な、一本一本違う風袋(ふうたい)のガラス瓶『ボウモア29年』だ。
洋酒辞典や雑誌等で見た事はあったが、実物に触れるのは初めてで、黒い化粧箱に収まるボトルは、気高いと気品をあわせ持ち、悠久の歴史を旅していたのだろうか。
ピカピカに輝くボウモアは、遥か彼方スコットランドはアイラ島で蒸留し育はぐくまれた。そもそもウイスキーは、アイルランドの地で1494年に作られたと記録がある。
もう500年以上も前の話だ。日本に於いては明応3年、かの足利義高が室町幕府第十一代将軍に就任し、世は戦国時代の幕開けを知らせていた。実にそんな時代に生まれたのが、現在のウイスキーの原型にもなっているのだ。
所変わって香港の地に、縁あって500年もの時間ときを経て辿り着き、何代にも渡り生き延びて来た名家の残党なのか、その子孫と出会ったのかも知れない、そう思うと実に感慨深い気にさせられる。
問屋の親爺が、更に奥から別の箱を持って来た。
かの有名な『マッカラン25年』これまた素晴らしい、恍惚となる様な一本だろう。
倉庫の一角に置かれた2本のボトル、あまりにも素晴らしい酒を前にして、啓介は言葉を失いかけていたが、結局は値段が幾いくらなのか、それこそが一番、肝心要の問題なのであるが、吉野が徐ろに尋ねると問屋の親父が、指を混じえて答えて見せる。
「450HKドル」
「えっ450HKドル————」
「えーと1ドル16、7円だから、えーと7500円位ですかね」
二人ともびっくりしていた、日本ではなかなか手に入る代物では無いだけに、仮に買えても恐らく7、8万はするからで、お互い顔を見合わせ、目が点になっていた。
「大丈夫なのかー……」
「————でもー、偽物は作れないでしょう、そう思いません?」
『ボウモア29年』も、ほぼ同じ様な値段と、誇らしげな表情が、いじらしくもあった。
少々の不安を抱えていたが駄目元で、啓介は『テイスティングをさせて欲しい』と聞くと、『No』だった、とぼけて見せたがダメだった……。
吉野が『ここはもう清水の舞台だろう』と、言って何本位在庫があるのかと、尋ねると2種類合わせて、300本位ある事が判った、啓介は斜め後ろから、吉野の背中を突付きながら小さな声で、はっきりと聞こえる様に話した。
「全部行きましょう!」
「え、全部、行っちゃうの?」
「行きましょう!」
「全部で幾らかな?、えーと、……」
全部買うから400HKドルにディスカウントして欲しいと言ってみたが、結局は420HKドルで決着すると、親父は渋々とした顔で、店の奥にブツブツ言いながら消えて行き、こちらは、随分と安く買えたのでニヤッとして二人で目を合わせ、いざ支払いの話になり、クレジットカードは使えないと言う。
吉野は仕入れ代、前日の売り上げ、釣り銭、月末に酒屋の支払い予定の金も含めて、約200万以上の現金を持参していたのだ。
『よし!買おう!』と、啓介に笑顔で伝えていた。
買うのは良いが、どうやって運ぶかが最大の問題で、しかも日本円を数えていたのを見ていたからなのか、本当に困っていると感じたのか、問屋の親父がホテルまでなら、運んでやると言うのだ。
目の前で現金を見せられているが、本当はこの親爺は、多分良い人なのだろうと思うも、一刻も早く、金を手にするには、この二人が出ていかない限り金は絶対に移動しないのも、紛れも無い事実なのだ。
『ホテルからだよな、何か良いアイデアは無い?』
そんな日本人を見て親父が痺しびれを切らして、広東語で何やら叫んでいた。
『吉野さんとにかくホテルまで行きましょう!もうそれから考えましょうよ』
格して、300本のビンテージと、二人を乗せた薄汚れたワンボックスは『屯門』の親父の運転で、ゆっくりと走り始めた。
窓から見える香港の街並みが、首都高速の兜町辺りの風景にとても似ている。車内は寸分の余地も無い、パンパンの状態で後部座席から足元まで、
蟻一匹身動きが取れないだろうなと、そう思いながら『屯門』の親父に感謝していると、30分でホテルに着くとポーターが飛んで来て、早く車を動かす様にと促される、当然である。
荷物には事の他敏感なのだ仕方が無い。
ほぼ電話帳サイズの箱が300箱、普通の旅行者が買って来る様なお土産や荷物とは桁が違うのだ。スーツケースに換算すると5、60人分に相当する。はっきり言って邪魔だったと思う、ホテルも困るし我々も困り果てていると、直ぐに出す事を条件に、一時預かって貰える事にはなったのだが、お先真っ暗で何のアイデアも浮かばずにいた。
一刻も早く厄介極まり無い300箱を、日本に送る手段を考えなければならず、二人を横目に、ポーターの表情が険しさを増し、不愉快極まりない顔が印象的で、ポーターの額からは大粒の汗が、滝の様にダラダラと流れている。
それでも半分位は一緒に手伝うと、いくらか心が通じたかも知れず、最後の一つを運び終えると達成感の笑顔と共に、その場に立ち尽くしていた。
「ヤバイよな————これ」
「ヤバイです……」
ロビーの一角に突如ビルが一棟建設された様な、異様な光景の300個。
そんな時に、啓介のお腹が『グー』っと鳴った、飛行機で食べた朝ごはんから、何も口にしていたかったのだ、当然と言えば当然である。
「吉野さん、腹減りましたね」
「何か食べよう!」
「はい!もうペコペコですよ」
「飲茶はどうですか?」
「良いねー、そうしよう!」
都合良くホテルの裏側に飲茶の大きな看板が見えたので、通りを急ぎ足で渡っていると、交差点で信号を待つ啓介、しばし立ち止まると、一本の木を見つめていた。
角度的に建物の陰に隠れて見え辛い、そんな姿を見て吉野が声を掛けた。
「おーい!啓介、どうしたの?」
「あ、はい!木蓮ですよ木蓮、好きなんですよ木蓮」
「へー、そんな名前なんだ……」
「季節的には、もう少し前なんですけどね……」
「ふーん、綺麗だね、なんだっけ?」
店の入り口のメニューを見ると、お手頃な値段に嬉しさ倍増したのか、一気に10品程を縦長の透けた紙に印をつけると、気まずいながらも乾杯しようと『サンミゲール』を2本頼んだ。
「いやいや大変だったなー」
「吉野さん、これからですよ!」
「税金は馬鹿らしいよなー」
「そうですね……」
たちまちちテーブルは、一面蒸籠で埋め尽くされ、立ち所に其々違う香りの湯気に包まれた。
「————美味しいです、とっても!、良いっすね、飲茶!」
「本当だ旨いな!」
まだ夕刻には遠く、昼には遅い中途半端な時間の割には、店内は地元の人や観光客で賑にぎわっていた。
『とにかく良い方法を考えないとな……』
22話
吉野は、少し冷めた春巻きを頬張り、打開策に向けてあれこれと巡らしていると、啓介は軽かろやかな口調で吉野に言った。
「吉野さん!これから『マカオ』に行って勝負しません?」
「えー、?、行くのは良いけど荷物はどうするの?」
「軽く勝ったら、それを船便の費用にあてるって言うのは、どうですか?」
「でもさー、あれ全部運ぶだろ、船便は幾らくらいかなー、啓介!」
「マジで、全く想像もつかないっすよ、ホント!」
「船だろうなー、やっぱり、船だよ、そうだ!船だ」
「———『澳門』ね———」
「負けたらどうすんの?」
「その時はその時で……、んー、頑張りましょう!ねっ吉野さん」
啓介はガイドブックを見ながら続けた。
「結構便はあるみたいですよ、今からだと16時位の便に間に合うので」
「よし、そうと決まれば行こうじゃないの!」
「行きましょう!『マカオ』」
一旦ホテルに戻りその旨むねを伝え、急いで的士タクシーで埠頭まで飛ばすと、あと1、2分で閉まる所ギリギリ間に合い、ものの1時間で高速船はマカオに接岸した。
ダラダラとタクシーの羅列に収まると、車から見える街の景色が揺ら揺らと光の帯になり、世界的に有名なホテル、リスボアの派手目なネオンが視界に入り、心成しか淫らな光に映っている。
10万円、日本でATMから下ろしたまま、信用金庫の封筒に入った10万円。Gパンの後ろのポケットから、右の前に移すと指で四角を確認しながら『CASINO』の中を暫しうろついていた。
「そうだ、吉野さん、あと幾ら位残っています?」
「そうだなーあとね35万位かなー」
「そうですか、35万ですか……」
啓介は何故だか、吉野の為なのかお店の為にも、役に立とうとしていたのだろう、無事300本を、何が何でも日本に持って帰るんだと、強い信念があり『CASINO』の中は、タバコの煙とその強烈な、悪臭にも似たエネルギーが充満していた。今まで生きて来て記憶の中には存在しない独特な匂いに溢れていた。
そんな中、ブラックジャックだけは知っていた啓介は、5万円をチップに変えると、ワクワクしてたまらなかった。朝、中目黒にいたのに、何故か今はマカオの『CASINO』にいるからで、レートが低めのテーブルに座り、徐々に賭け始めると、結果は散々たるもの全く良い所も無く終わった。
余りにもつまらない負け方に悔しさの、欠片も無くものの10分程度で半分の5万は、あっという間に消えて失くなると、吉野はルーレットの台で、一見地味に見えるものの延々と、赤・黒に賭けていた。
啓介は、残りの5万は躊躇しながらもチップに替え、何かを感じるテーブルを探して歩いていると、やがてカジノ全体の雰囲気にも少し馴れ始めて来ていたのか、その椅子は何か意思を持って、さも訴えかける様に少し輝いている風な感じがしていた。
ディーラーの初老の男性は、喜怒哀楽とは無縁の表情を浮かべていた。すると、少しずつチップが増え始め、一進一退の攻防の先に、僅かな望みが見えた気がしていた。
『あー、良かったー』
綺麗に並べたチップを数えると20万位にはなっていたからで、一旦休憩しようとルーレットに近づくと、吉野のチップは其れなりの山になっていた。
「どうですか?」
「結構勝ってるよ啓介は?」
「少し勝ってます、元の倍までにはなりましたよ、一旦飯にしませんか?」
「啓介は何を食べたい?」
「ホント、何でも良いです、簡単に中華でいいじゃ無いですか」
「さっきも中華じゃん……」
「イタリアンですかね?」
「ポルトガルとか、……」
「時間がかかりますよ」
「よし!、簡単にしようか!」
ホテル内の中華は人でごった返していた、紫色の椅子に座ると、見た目と違って硬く、店の外にあった黒板にある『todayディナー』を注文たのんでみる事にした。
料理が3品しなに、コーン・スープと大ぶりな白飯が運ばれ、二人のエリアはキツキツの状態で、相席の円卓には他に2組、中国か香港か判らないお客が座っていた。
吉野は、そこそこ美味しい味に安心していた。無論啓介にしても同じ様な顔をしていた。
「海鮮焼きそばを食べたいんだよなー、塩味かな?オイスター?」
「まだ食べれます?」
「いや、そこそこお腹はいっぱいなんだけどさー、海鮮焼きそばが無性に食べたくてさー」
メニューの漢字を辿たどって運ばれた焼きそば、味は良いのだが、量が多く残してしまった。
「これ1人前ですかね」
「多いよなー」
「真面目な話、無理ですよね、この量……おかしく無いですかね?」
大瓶のサンミゲールを3本飲み、伝票は650HKドルと、凡そ1万円位のお勘定なのだ。
「十番のあそこの方が全然高いよなー」
「そうですね、間違いなく、倍はしますよマジで」
マカオを代表するホテルで食べた割には、意外にも安く済んだ事で、気分的には相当儲けたような、そんな嬉しい気分にさせてくれたのだ。
「あれ、チップとかは、どうなんだろうね」
「そう言えば、さっきの飲茶の店でも、チップは置いてこなかったけど」
「まー、ホテルだから、少し置いておきましょうよ」
「そうだなー……」
「ご馳走さまです!」
「部屋とか、どうする?」
「押さえておきます?」
「混んでるからなー、ちょっと聞いてみるか?いや、やっぱり取っておこう!」
同じ席に戻ると、そこには見知らぬチップと煙草が2箱、啓介の3倍位の量のチップがやや威厳を持って置かれていた。
諦あきらめて他のテーブルを探すも見当たらない。
照度は淫靡(いんび)のまま変化は無く、夜が段々と、本格的にその姿を露呈し始め『全員死んでお仕舞い!ホホホー』そんな声が聞こえる、そして活気が漲みなぎり欲望の渦が塒(とぐろ)を巻いて、凄い事になっていた。
そこに5、60歳位の男性が一人座っているテーブルを見つけ、敢えて一番最後の席に座り、じっくりと腰を据えてゲームを再開したのだ。
ブラックジャックは、誰でも知っている最も簡単なゲームで、右から順々にカードを配り、合計数字が21を目指すと言う、極めて単純と思えるカード・ゲームなのだが、最後の人はディーラーに対して、それなりの責任があり、暗黙のルールになっているのだ。
啓介はその事を、知っていたがあまり深く考えずに座っていた。
ポケットには22万円のチップがある。
何故だかそれ程苦労する事ないままに、都合の良い数字が流れて来るようになっていた。其れこそ、あっと言う間にチップが増え、それも自然にそうなっていたと言った方が、正解だった様な気がしていた。
更に、賭ける所も二ヶ所から三ヶ所に増え、勢いが増してきた時に、ディーラーが中年の女性に変わり、啓介は我慢をしていた訳でもなく、トイレに立つと、また二ヶ所にして賭け始めた。
1時間位だろうか、殊の外かチップは増えに増え、10万の塊が5個になっていた。
初めての『澳門』、その割には冷静に見えていたのか、再び三ヶ所にすると、ピークらしきゾーンに入ったのか、負ける気がしなかったし、かなり勝ち続けた。
ありえないカードの連続に正直自分でもびっくりしていた。
正確な時間が判らなかったが腕時計の針は、変えていないので1時間戻せば良い、丁度12時を回ったあたりに、勝ったチップを現金に変えた吉野が、ニヤニヤしながら近寄って来た。
「やったよ!50万位かな」
「やりましたねー、良かったですねー」
啓介の手元には、きちんと整理されたチップの山があり50万の塊が5山が出来ていていた。
『そろそろ止めます』
キャッシャーに行きチップを差し出すと、HKドルか日本円かと聞かれると、即座に円と答えると、少し手間取ったものの、初めての『澳門』で差し出された現金は、278万円と小銭が少々。元手の10万を差し引いて、何と268万の儲けに繋がったのだ、其れこそ本人が一番驚いていたと思う。
そこには、断固として一つ言える事があった。実は席を移ってからの5万も、あっさりと、消え去る瞬間があった。一瞬何かの力がそうさせたとしか思えない、何故二ヶ所にしたのか?そうなのだ、手が勝手に動く訳では無いのだが。
二ヶ所にチップを置いた局面があり、而も両方とも『11』からの『ダブル』。その時に全てのチップを使い切ると同時に、何もかもが終わる局面を迎えていたのだ。
そんな流れの中幸運にも絵札が2枚、輝く未来を連れてやって来たと言う訳で、こう言う何とも普通では無い感じ、完全に良い意味で逆の流れになっていた事は、啓介自身激烈な刻印として、緑のテーブルに強く焼き付いていた。
二人して足取りも軽くフロントに行き、ツインの部屋に落ち着き、手を取り合って喜ぶと、部屋の冷蔵庫には冷えたランソンのハーフがあり、ビールグラスで一気に飲んだ。
一度ひとたび泡沫(うたたか)の葡萄で忽(たちま)ちむせると、何かツマミにとルームサービスのメニューの中に、生ハムや地元で有名なケイジョ・フレスコを頼むと、締めにとリングイネのトマトソースまで食べた。
ポルトガルの代表格の品種、ティンタ・ロリスも2本あっと言う間に、疲れ果てた身体と、数多(あまた)の臓器に染み込んで行った。
摩訶不思議な酩酊の終わりに、ギラついたネオンも暁天に溶け出し、部屋飲みと言えども、見事なまでに記憶を置き忘れた『リスボアの奇跡』
思い起こせば、自宅を出てから丁度24時間、余にも凝縮された時間ときを過ごし、シャワーも浴びずに着の身着のままに、まるで死んだようにベッドに沈んだ。
23話につづく