「裏金」は本当にあったのか?
「裏金」とは何か?
帳簿に記載すべきお金が記載されず、簿外のお金として蓄財されたお金を「裏金」と呼ぶなら、結論、「裏金」はあったと言える。だが、その響きは「私的な目的の為に」という意味が含まれている。何故なら、その蓄財されたお金が「私的に流用」された時、初めて法的な処罰の対象となるからだ。無論、公明党も、党支持者達も、この事件を受け入れる事など到底出来ない。だが、中身を見てみると、どうも報道とは様子が違う。この「私的な流用」の実態が殆ど無かった事が検察の調べて明らかになっている。一部では「私的な流用」の疑いがあるケースは立件されてはいるが、大多数が「私的な流用」は認められず、法的な処罰の対象とならなかった。では何に使っていたのか。ファクトをチェックしたい。
萩生田氏が今回の問題を説明していた「ReHacQ」を見たまとめ
YouTubeチャンネル「ReHacQ」でこの度、自民の非公認の処分を受けた萩生田氏が赤裸々にこの件の全容を語っておられた。安倍派五人衆の一人、派閥幹部である氏の言葉は、不記載の実態を端的に表していると言って良いと考え、ファクトチェックとさせていただいた。
以下、萩生田氏の説明のまとめを箇条書きにした。
1、私的に使用したお金は全くない。(検察調べで明らか)よって違法性は無い。
2、すでに収支報告は修正し、訂正報告済み。全国民が閲覧可能。
3、何処で何に使ったお金かを全て説明できる。政治的な活動にしか使用しておらず、領収書等と全て合致している。領収書も閲覧可能。
4、「裏金」をつくろうとする意図は全く無く、コロナ禍でパーティー券のノルマが急遽下がった為、たまたまキックバック分が多くなってしまっていた。しかもこのお金は「派閥のお金」という理解だった為、場合によっては再度集金の可能性があり、個人の収支報告とは別計上していた。
5、政治倫理審査会は潔白を証明する場として活用するのであって、自身が悪いことを認めてる場合は出る意味がなく、説明責任という意味では他の方法を取る方が良いと判断した。他の人もそういう判断で出て無いのだと思う。
以上が主な内容だった。
全体を通して、一貫してやましい事に使った形跡は無かった。それは同番組に出演されていたプロデューサーの高橋さん、岸博幸先生も同様の感想を述べておられる。そして何より萩生田氏は真摯に反省の弁を述べており、それらに嘘がない事は番組を見ていただけたら明らかだ。その上で、岸先生は納得できる事実をちゃんと報道してないメディアの問題も指摘されていた。また、この不記載問題の本質は、やはりシステムの問題である事も言及されており、やはり再発防止の政治改革が急務であり、公明が進める政治改革が最も的を得ている事が改めて確認できたと感じる。ここまでフラットな情報提供していただいてるReHacQに感謝したい。また、これらを見て、自民の議員さん達は既に、真相解明や事実の説明というフェーズから、再発防止、ルールの策定というフェーズへと移行しているなと感じる。公明党としても、同様の説明を各該当議員から受け、支援者も党支部も納得し、推薦を決定したのだろう。あくまで「個々に判断」との事なので、「箱推し」してる訳ではないという所に、少なくとも僕は納得している。事実、この萩生田氏は公明から推薦を受けていない。推薦を依頼されていないという事もあるが、単なる党利党略の馴れ合いではないと感じるからである。不記載の問題を決して容認した訳ではない事も追記しておく。個々に精査し、何より公明支援者の厳しい目を超えて推薦を出しているとの説明にあった通りだ。ただ、西田亮介教授より厳しいご批判をいただいているが、そこは真摯に受け止めて欲しいと思う。国民感覚を端的に代弁して下さっているからだ。一方で、僕としては「公明が甘い」とは思えない。僕の主観で恐縮だが、萩生田氏ですら、あれだけちゃんと説明された上で、やましい所は無いにも関わらず、派閥の幹部であったとの事で非公認である。もう十分厳しい処分を受けていると思える。増してや他の議員は、既存のシステムに問題無しと誤った教育を為されており、それでも念の為そのお金に手をつけずそのまま事務所で保管をしていたケースが最も多数で、使ってもいないのに「比例重複なし」の処分を受けてるのである。しかし、国民感覚と党の、この認識のギャップは何故生まれるのか、この部分の意見はこの後述べたい。ともあれファクトから言える事は
「裏金はあった。が、その響きから感じる様な悪意のある行為は認められなかった。そして既に、各方面で説明はされている」
という事だ。とにかく再発防止への行動が急務であろう。やはり政治改革を全力で推進するべきである。
キャンセルカルチャーこそが本当の問題
僕が思う、これらから読み取れる問題は、説明責任を果たそうとしている姿勢を国民に知らしめようとしていないメディアと、こういう事があった際に、叩くだけ叩き、イメージだけを流布しておいて、訂正のチャンスを与えない所謂「キャンセルカルチャー化」する社会風潮にあると思う。過ちは確かにあった。しかし、叩く報道だけして、その人達からリカバリーするチャンスを与えず、叩き続ける行為を静観しているのは、言い返す相手の言葉にわざと被せて反論を遮り、自身の主張のみを正しいとイメージ付ける今流行りの「論破」と同じ構造だと感じる。だから、過ちを犯した側がどれだけ説明しても地元に居ない周りの国民には伝わらず、叩き続ける人の所為で未だに真相は語られて居ないと感じてしまう。それがギャップの正体だろう。フラットに報道しようとしないメディアが理解を阻み、国民が知るべき情報を遮っているからだ。その姿勢は謝罪文を載せる時のメディアの姿勢に表れている。報道する時はバカでかい見出しで書いておいて、誤りを訂正する時は4分の1ほどの小さな文字で端っこの方にのせる。これが誠実な姿勢と言えるのか?通常の社会において、誤りを謝罪をする時にそんな態度が通用すると思うのか?こんなナメた姿勢をメディアだけが許されてるのは明らかに異常だと思う。何故そう感じるかと言うと、僕は公明支援者であり、ずっとこういう一方的な報道に晒されて来たからだ。同党は今迄も、好意的な報道をされた事はほぼなく、今回も、見事にレッテルを貼られて、あたかも「裏金」を容認したかの様に吹聴されている。そして創価学会も、明らかに誤ったイメージを植え付ける様な報道をしておいて、訂正する様な報道が今まであっただろうか?これらを僕達自身が、自分の対話力と普段の行動で、周囲の誤ったイメージを覆して行ってるからだ。謂わば僕らは最もそういった「キャンセルカルチャー」に抵抗し続けてきた人間だからだ。お陰様で、メディアの情報を鵜呑みにする事は無くなり、ネットの普及でより俯瞰して見られる様になった。そういったスキルを磨けた事は僕の人生の大きな利益となっている。
公明が推薦に回った理由
これらの事から、公明が「同じ穴のムジナ」批判に遭うのを承知で推薦に突っ込んで行ったのかを考えた時、僕はこう感じた。公明は「キャンセルカルチャー」に流される事なく、過ちを正し、再チャレンジへのチャンスを応援する社会へ志向する事を示したかったのではないかと。正直、今ここのタイミングで処分の対象となった議員を推薦する事は、イメージ的にマイナスでしかないのではないかと思った。しかし、この「キャンセルカルチャーへの抵抗」を掲げるなら、僕は多いに賛同する所だ。失敗してもチャレンジ出来る寛容な社会への歩みを残り8日間応援し続けていきたい。
長々と最後まで読んでいただいた方々、本当にありがとうございました。