戦慄のシステム
子どもが産まれて4日目。これは大変なことである。子どもカワイイ以外のことが考えられない。
奥さんと子どもがいる産婦人科医院には、可能なかぎり滞在してます。家に帰っても奥さんも子どももいないが、産婦人科医院には居るからだ。
自分たちの子どもが母乳を飲む瞬間を観たことがあるか。
いまはだいたい3時間に一回、授乳タイムがある。
赤ちゃんはお腹がすくと、安眠の顔から、徐々にくちをチュパチュパならし始め暖機運転をする。そしてお腹の具合とチュパチュパのエンジンが仕上がったとき、
「あー! あー!」
と泣きはじめるのだ。
そして、規定のミルクと母乳をしっかり飲みきって、げっぷでミッションコンプリートの報告をし、凪のような穏やかな顔で安眠にはいる。
ミルクや母乳を飲むのは、いまの赤ちゃんにとって一番の仕事だ。成長のために必要なことだし、単純にけっこう体力を消費するらしい。おとなでいう50m走くらいだって。だから、毎回ちゃんと飲むの、えらい。
まだ、大人の手を借りないとほとんど何もできない赤ちゃんだけど、「哺乳瓶やおっぱいからミルクや母乳を飲む」ということに関しては、自分のちからでやっているのだ。えらい。
産まれてきて、おぎゃあ、と誕生の勝ち鬨をあげ「我ここに有り、他でもないこの世界で生きるもの也」と宣言した。「わたしは、生きる。だから手を貸せ」と周囲を動かした。この時点で相当えらいと思う。その上、ちゃんと自分の仕事もする。母乳を飲む。えらい。
もらったパンフレットには、赤ちゃんの成長過程で、だいたいどんなことができるようになるかが記載されている。
3~4ヶ月で首が据わる、寝返りが打てるようになる。6ヶ月でハイハイをする――とかそういうのだ。
肌が粟立つ。戦慄に背筋がゾクリとする。これからいったいどれだけ、「いまは出来ないことが出来るようになる」っていうんだ?
自分の子どもが産まれる前なら、そういうことに対して尊いと思う感情と同時に「そりゃ尊いことだろうけど、誰だって最初はそうなのでは」と少しドライな目線も持っていたと思う。
しかし、自分の子どもが産まれてみると、「まあ誰だってそういうものだし」という感情が知らぬ間に爆発四散しており、跡形もなくなっていることに気づく。
誰かと比べて当たり前なのか特別なのか、とかそういうことでは全くない。
ただ、厳然と、
「はぁあああああ、おっぱいから母乳飲めたの、えらいねぇぇぇぇ!」
というひとつの感情が在るだけだ。
誇張ではなく、そのシーン、瞬間が、フィレンツェとかの大聖堂の天井に描かれるべきだし、繁華街の駅前で号外がばらまかれるべきだと思う。
自分たちの子が母乳を飲む瞬間をみたことがあるか。
心が爆ぜるぞ。