【あとがき】 あいまいな過去 4~6

この「あいまいな過去」、元になる記事をmixiに書いたのはもう十年前の事でした。

そして、その記事の中の話自体はそこからさらに十年以上も前の話。
いま、書き足したり削ったりしながら当時の事を思い出しています。
もう大丈夫かなと思っていましたが、思い出すと今も少し辛いですね。
(3と6は今回noteで初めて書いた話)

4)
遊びに来ていた友達と、登校を促していた同級生。
今思えばどちらもありがたい存在ですが、当時は登校を促されても困るばかりで、促してくる存在は正直迷惑だと思っていました。
(登校を促してくれた同級生には申し訳ない対応をしてしまいました。)

先生に関しては、このヒステリックな対応しか記憶にありませんが、たぶんそれまでには他の形での対応をしてくれてもいたのだと思います。
ただ、あの対応は最悪でした。
当時のカーテンにしがみつき抵抗した時の怖さは忘れられません。
それでも、先生には先生の事情があったのだと今は思います。

5)
この時、乗り込んできた(寝ていたら勝手に玄関開けて乗り込んできた)教師は、絵に描いたような体育会系の熱血教師な対応で、僕には恐怖以外の何者でもありませんでした。
(ドラマの中のような教師が実在するんです。もしくは実在しようとしているんです。)

卒業は良い経験になりました(式には出席してませんが)
一度も登校していない(たぶん)自分を卒業させてもらえたのは感謝しています。
証書を自分でとりに来ないと卒業には出来ない(しない?)、と言われて行ったような記憶もありますが、なにはともあれ実際に行ったおかげで最後の最後に色々と勉強にもなりました。

学校の対応には、僕が相変わらず嫌っていた父も嫌悪感を示していました。
そのことは少しだけ父を身近に思わせてもくれました。

6)
当時は色んな所に連れて行かれたようでした。
母親も初めての事態に困惑して必死だったそうです。

僕は母親との時間が増えて甘えるようになっていた記憶があります。
いわゆる赤ちゃん帰りを起こしてもいたのだと思います。
ただ甘えたい(甘えていたい)自分は、現実と向き合い戦っていた母にはどう映っていたのだろうか…。
今の様に不登校や引きこもりに対する理解や支援もあまり無かった当時は、親にとっても大変な事態だったのだろうと思います。
僕を思って動いてくれていた親には感謝です。

相談機関の職員さんの話は、後々聞いたところによると、登校刺激みたいなものだったようです。
当時の僕は何かあったらすぐに泣いてしまうような子供だったので、職員さんも僕が泣き出すとは思わず困惑していたのかもしれません。

勉強に関しては、やるとまたあの『普通』の世界に戻されると思っていて、本当に嫌でした。
代わりに、テレビとマンガと新聞と本、あとはゲームと音楽が学ぶ先になっていました。(家族と友達も)

熊本市で、ひきこもり自助グループ「かこかり」の運営をしています。 居場所作り活動中。