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おばあちゃん

先日のこと。

おばあちゃんが亡くなった。

おばあちゃんのことを忘れたくないし思い出を思い出したいのでこの記事を書いて残しておく。

こういう色々な人が見ている場では改まった言い方で「祖母」とした方が良いのかもしれないが慣れ親しんだ言い方で進めさせていただく。

あ、ヘッダーの花は生前おばあちゃんが好きだったシクラメンです。

おばあちゃんとは自分が赤ちゃんの頃から僕が一人暮らしするまで一緒に暮らしていた。母親も働いていて夜遅くになるまで帰ってこないのでずっと一緒だった。僕が幼少期の頃は僕が寝た後に母親は帰ってくるので料理も作ってくれていた。

おばあちゃん。ビールが大好き。毎日飲む。80歳になっても1日3缶は絶対飲む。5缶飲む時もある。毎晩ヘベレケ。「もう飲んじゃだめ!」って止めると機嫌が悪くなる。年取るたびに精神は子供になっていく。タバコをめちゃくちゃ吸う。医者から入院するたび「やめろ」と言われてもやめない。やめられない、というか吸わなくなると逆に寿命が縮むのではないかと思う。草彅剛が嫌い。理由は「生意気だから」。どこが生意気かは分からない。大久保佳代子が嫌い。理由は「人の悪口ばっかり言うから」口が悪いだけだし、それが芸風だから許してあげて。お尻が臭い。理由は「犬に噛まれたから」。ホンマか?髭が生えている。料理が上手い。

僕が3、4歳の頃の夏のある日、おばあちゃんと近所を散歩していた。当時おばあちゃんがよく行っていた酒屋さんがあり、店を出た所にセミが仰向けで転がっていた。僕はカブトムシやクワガタが好きだったのでおばあちゃんは「触ってみたら?」と言った。仰向けになっているから死んでいると思ったので興味本位で触ってみることにした。するとセミはいきなり「ジジジジジジジジ」と飛んで行った。セミは鳴いて飛んで行った。僕は怖くて泣いて飛び上がった。当時は仰向けのセミは全部死んでいると思っていたので驚きは普段の数百倍だった。(今で言うセミファイナルの状態)。以来、トラウマで大人になった今でも怖い。実家の入り口に木が3本あるのだが、夏はどれか一本に絶対止まっている。近づいて玄関を目指すといきなり飛んでどっかに行く。セミは起こしてあげても礼も何にもせずにいきなり飛んでいくのでいつの間にか恐怖感から嫌悪感に変わっていった。

時が経ち、小学生になった。
小学校低学年の頃はよくおばあちゃんとおばあちゃんの知り合いの人とよく土曜日の朝に巣鴨に行っていた。その知り合いの人は途中で行けなくなってしまったが、その後もおじいちゃんとおばあちゃんで行くようになった。そこでの楽しみはマクドナルドに行くことだった。朝に巣鴨に行くというのが肝で、10:30までしか食べられないハッシュドポテトを食べるのが好きでマフィンを食べずそれだけ何個も食べていた。
塾に通っていたので小学校5年になると塾で夜ごはんを食べることが多くなっていた。母親は仕事で忙しかったのでおばあちゃんが弁当を作ってくれた。その時に殆ど毎回作ってくれたのが焼いたエビを焼いたベーコンで巻く名前のない料理だ(アスパラのベーコン巻き in→エビ out →アスパラ みたいな)。普通かもしれないが作ってから時間が空く為持っていく前にそれを電子レンジで温める。それが油が落ちて美味しくなかった。それが唯一おばあちゃんの作る料理の中で一番不味く、食べるのが嫌だった。
おばあちゃんが作る料理で好きだったのはカレーとオムレツだ。カレーは豚肉と定番野菜三連単(じゃがいも、玉ねぎ、人参)とこくまろ(子供なので甘口)を使ったシンプルなカレーだったがそれが美味しかった。オムレツは卵の中にひき肉と玉ねぎを炒めたものが入っているのだが、醤油をかけて白米に載せるとご飯がすすむ。カレーとオムレツは普段ご飯をおかわりしない僕が率先しておかわりするメニューの2つだった。
僕は杖を使うのを酷く嫌っていた。杖を使うとより衰えて見えるし、杖を使わず自分の足で歩いて欲しかったという運動部みたいな根性論のような理由だった。結局、僕が小学校高学年の時のおばあちゃんの誕生日にプレゼントとして母から貰った。
この頃からおばあちゃんは心臓が弱く、入院するようになった。入院の帰りにリアルタイムでガンダム00を観たのを覚えている。

中学2年の時におばあちゃんがまた入院した。学校の帰宅途中に母親から「おばあちゃんが危篤状態だ」というメールが届いた。当時危篤という漢字が読めなく、意味が分からなかったが「危」という漢字を使っているので良くない状態だと推測したが念の為一緒にいた成績が学年1位の友達にどういう意味か聞いたら「生死に関わる状態かも」と言われたので急いで入院先の病院へ向かった。おばあちゃんの病室は状態が良くない人向けの一人部屋にいた。病院に着くとおばあちゃんはケロッとした顔だった。僕は安心して泣いてしまった。普段感動とか痛みでも泣かなかった僕が初めて外で泣いた。帰りの車の中でリアルタイムでやっていたジャイロゼッターを観ていた。どうやらおばあちゃんが入院する度にロボットアニメと関わりがあるみたいだ。

元々出不精だったがいつの間にか外に出なくなってしまっていた。外に出なくなると自然と口数が少なくなる。だから僕が大学生の頃デイサービスに週二で通うことになった。するとおばあちゃんは元気になり口数も増えた。行く前は「行きたくない」と子供のように駄々をこねるのだが帰ってくると笑顔も増え楽しそうだった。元気になり通う日数も週二から週三に増えた。デイサービスではもちろん喫煙はできない。しかしおばあちゃんはそこの室長さんと仲良くなり、室長さんが喫煙場所でタバコを吸っているのを見かけ隠れて一緒に吸っていた。それからおばあちゃんは自分のバッグに自分のタバコをおじいちゃんに入れさせていた。不可能を可能にした。
ここ2年ほどでおばあちゃんに変わったことがあった。それはテレビを観ていて安易に人のことを「この人嫌い」と言うことは無くなった。冒頭でも言った通り嫌いな芸能人が出てくるとすぐ「この人嫌い」と言っていたが言わなくなった。でも特定の芸能人が出ていたりすると毎回同じ言葉を発することは変わらなかった。例えばテレビにヒロミが出ていると「この頃伊代ちゃん全然出なくなったね〜」と言うのを毎回言ったりするとか。今思うと「この人嫌い」と言わなくなったことが元気なくなっていた証拠だったのかもしれない。

今年のGWのある日、おばあちゃんはいつも通りデイサービスに行った。数時間後デイサービスから電話がかかってきた。おばあちゃんが倒れたとの事。急遽入院することになった。数日後僕はお見舞いに行った。おばあちゃんは目を閉じたまま眉間に皺を寄せ、苦しそうな様子で荒い呼吸していた。僕はその姿を見て耐えられず泣いてしまった。人間は無意識に呼吸しているがそれが苦しくなっているのが可哀想に見えた。おばあちゃんは左脳が死んだ状態らしく、言語を上手く発声することができない。例え回復して退院することになっても以前のように不自由なく生活することはできない。僕にとってはそれは死んでいるのと同じだと感じてしまった。その後も見舞いに行ったが目は開いたものの焦点は合わず斜視気味だった。僕と認識できていたのだろうか。反応はなかったからできていなかったのかもしれない。2ヶ月後容体は少し良くなったところで転院することになった。転院して良くなった兆しがあったのだが、容体が急変しまた転院することになった。僕が見舞いに行こうとした日、峠だと言われた。その連絡を聞き予定より早く病院に向かった。苦しそうに呼吸をしているおばあちゃんを見てまた心がしんどくなった。一段落して家族と合流しお茶しているとまた容体が悪化した。

そしてその夜おばあちゃんは息を引き取った。
86歳。
3ヶ月弱の病魔との格闘が終わった。

数日後葬式が執り行われた。
その日に初めておばあちゃんの遺影を見た。いつ撮ったのか分からないかったがどうやらいつぞやのデイサービスに行くときの写真で表情はどこか物憂げだった。多分デイサービスに行きたく無かったのだろう。今の技術は凄くて遺影にするときに合成で服を変えられるらしい。「あれ、おばあちゃんこんな服持ってなかった?」というくらいおばあちゃんらしい色合いの合成の服だった。
斎場につくやいなや泣きそうだったので僕はそれを堪えるように親に「もっといい写真なかったのか」と苦し紛れに聞いた。実際思ったことだが。親曰く「普段から写真を撮らないからこれしかなかった」と。確かに写真を撮る習慣は無かったので納得した。
棺から顔を見ようとしたが見たら涙が溢れ出しそうだったので最後の最後まで見ないことにした。
そうこうしているとお経が始まったのだ。ここで謝らなければならないことがある。僕はその日色々あって徹夜で葬式に向かったのでお経中うとうとしてしまった。おばあちゃんごめん。もちろん親族にはバレてた。
その後棺の中に親族が花を添えるのだが僕はそこでようやくおばあちゃんの顔を見た。何十年ぶりだろうか。化粧をしたおばあちゃんを見たのは。とても綺麗だった。こう言っては失礼で不謹慎かもしれないが今までで一番綺麗だった。宇多田ヒカルの『花束を君に』の「普段からメイクしない君が薄化粧をした朝」という歌詞を思い出し、涙が止まらなかった。信じたくないが本当にこれでお別れなんだ。という実感が大きくなっていった。折角珍しくメイクしたんだから目を開けてよ。そんな願いは通じなかった。
最近は「火葬場待ち」という言葉を聞くものだから火葬は後日かなと思ったが当日できた。骨を見るとボロボロで脆かったというのが分かる程だった。


飲兵衛でヘビースモーカーで優しいおばあちゃん。

自分で言うのも何だがよく優しいとか優しそうとか言われる。よくおばあちゃん子は優しいというのを聞くがそうなのかもしれない←
そういう性格になったのもそういう表情になったのもおばあちゃんのおかげだと思う。

この文章を書きながらでも泣きそうになっていた。スタバで書いているのに。思いっきり公共の場なのに。だから僕は霜降り明星のラジオを聴きながら泣かないようにこの記事を書いている。

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