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志村康太も気になる!「勝海舟」ってどんなひと?
江戸時代末期の偉人と聞いて思い浮かべる人は誰でしょう。
この時期は移り変わりの激しい世の中であり、沢山の偉人たちが活躍しました。
しかし、そんな激動の最中に「江戸城を無血開城」させた偉人が存在します。
「勝海舟」です。
今回は、志村康太が「勝海舟」について詳しく紹介していきたいと思います。
志村康太が紹介する勝海舟の経歴
勝海舟の実家は高利貸し(金貸し)で成功し、江戸に自宅を構えていました。
おじいさんの代で事業は大成功をおさめ、勝海舟の父である勝小吉はボンボン気質でかなり性格が歪んでいたそうです。
さらに勝小吉は腕っぷしも剣術もかなり秀でており、道場破りに明け暮れる毎日だったと言います。
勝海舟はそんな父親をもっていましたが本人は父親の負けん気や根性だけを受け継ぎ、頭脳明晰で学問にも秀でていました。
蘭学(オランダ語)においては特に優秀な成績をのこしており、本人もオランダ語を流暢に話したそうです。
修業時代には、オランダの辞書である「ドゥーフ・ハルマ」を2部翻訳するほどで、1部は自分用に持っておいてもう片方は売ってお金にしたと言われています。
幕政に参加するのは、ペリー来航が大きく関係しています。
ペリーから日米修好通商条約を求められていた老中の安倍正弘。
安倍正弘は、自分の意見だけではどうにもならないということで意見書を公募したのでした。
そこに勝海舟は海防意見書という書類を提出し、それが安倍正弘の目に留まり重用されるようになります。
安倍正弘は勝海舟がオランダ語が得意であるとわかって、長崎海軍伝習所の教授やオランダ人教官の通訳として活躍させたのでした。
その後、幕府がアメリカへ日米修好通商条約の返答のために艦隊で向かいます。
勝海舟はジョン万次郎、福沢諭吉らほか、重役と共にこの艦隊に乗組員として渡米をしました。
ここで勝海舟は日本の文化と全く違うアメリカを見て衝撃をうけたと言います。
このように長崎でオランダ人と時間を共にし、アメリカへ渡ったことから、日本国内に留まっていては身につかない感性と頭脳が生み出されることになるのです。
日本に帰国すると、さっそく海軍強化の仕事が待っていました。
そこでは幕府だけでなく、日本全体で海兵の強化をする計画を採用しますが、「幕府の海軍」ではなく「日本の海軍」の創設を保守派は許してくれませんでした。
そして、戊辰戦争が開始されます。
江戸城を攻めるために上京してきた新政府軍。
新政府軍によって江戸城は焼き払われるか否かに迫られていました。
勝海舟の当初の作戦では、城下の民をあらかじめ千葉へ避難させ、新政府軍を江戸に入れた直後に火を放つ計画でした。
しかし、勝海舟は徳川慶喜からの計画を受け取りそれを採用し、無血開城を西郷隆盛に交渉を持ち掛けたのでした。
これによって150万人の命とその者らの財産が守られる形になったのでした。
無血開城を計画した徳川慶喜、そしてそれを実行するための交渉をおこなった勝海舟を忘れて歴史を語ることはできないでしょう。
以上、志村康太でした。
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