#21 「ペルシア戦争」と「ポエニ戦争」の共通点:商人の代理戦争
こんにちは、クロノ(@chrono_history)です。
いきなりですが、「ペルシア戦争」と「ポエニ戦争」の共通点が分かりますか?
用語集には以下のように書かれてあります。
◇ペルシア戦争(前500~前449)
◇ポエニ戦争(前264~前146)
ペルシア戦争は「アケメネス朝ペルシアvsギリシア諸都市」、ポエニ戦争は「ローマVSカルタゴ(フェニキア人の都市)」。
どちらも小国と強大帝国との戦いが共通しているようにみえますが、ポエニ戦争は実力が拮抗している同士の戦いです。「ローマ」といってもイタリアを統一して間もないころのローマなので。
結論からいうと、2つの戦いは「地中海を巡るギリシア商人とフェニキア人の戦い」なんです。
ペルシア戦争
アケメネス朝ペルシアは商人を保護しました。地中海はフェニキア人、内陸はアラム人の商人が活躍していました。
大国に保護されたフェニキア人は西地中海を独占的に支配し、古くからレバノン杉の輸出などで穀倉地帯であるエジプトとの関係を築きあげており、地中海経済の覇権を握っていました。
地中海の交易圏を巡りギリシアと争うフェニキア商人は、ペルシア戦争時にアケメネス朝ペルシアに協力しています。
ペルシア海軍の主力はフェニキアが担っており「ギリシア商人とフェニキア人の戦い」でもあることが分かります。
ペルシア戦争(前500~前449)とポエニ戦争(前264~前146)の間に起きた、世界史の大ニュースが「アレクサンドル大王の東方遠征」です。
遠征の途中でレバノンにあるフェニキア人の港ティルスが破壊、エジプトには「アレクサンドリア」が作れられギリシア商人の拠点になりました。
大王は遠征前にスパルタを除くギリシアポリスを従えており、ギリシア商人は保護下にありました。
ここまでをまとめると、アレクサンドロス大王の登場によりフェニキアが被害を受けたということです。
しかし、大王が病没してしまい、ギリシア商人は後ろ盾を失います。
その後、繋がりをもつようになったのがローマでした。
まだ小さな都市国家でしたが、求めるものは拒まない、良いものは何でも受け入れる、というギリシア人にはない開放的な勢いがありました。
加えて、ローマ人は商業、金融、情報ネットワーク作りに疎いところがあり、逆にギリシア商人は得意分野であったため、双方の関係構築できる基盤がそろっていました。
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ポエニ戦争
ギリシア商人もフェニキア人も、地中海の制海権をとったほうが勝ちなのは分かっていました。
そのさい最重要拠点になるのが「シチリア島」です。
イタリア、エジプトや紅海、どちらに行くにしても便利なのはシチリア島です。
ローマは乾いた土地であり農業には向いていません。交易で穀物を得るしかなく、地中海と支配するのが一番手っ取り早かった背景もあり、利害の一致したギリシア商人が動き出します。
その延長上におきたのがポエニ戦争(ローマとカルタゴの戦い)
ちなみにカルタゴはフェニキア人の都市です。
ポエニ戦争は全部で3回ありますが、勝負は2回でつきました。アメリカ軍が日本にしたように、ローマはカルタゴから軍備を奪い戦争を放棄させます。
そして多額の賠償金をローンで払わせます。ローマの誤算だったのは、その後のカルタゴの復興です。戦後の日本とおなじように、ものすごいスピードで復興します。
多額の賠償金が繰り上げ返済されました。第3回ポエニ戦争でカルタゴは二度と立ち直れないまでに破壊されます。ここまでやるかというぐらいに破壊しました。
おそらくローマは、商人としてのフェニキア人を恐れたのでしょう。
徳川家康が豊臣家に言いがかりをつけて大阪の陣は始まりますが、あれと似た感じで第3回ポエニ戦争は始まります。※多少、カルタゴが約束違反してたので、豊臣家と全く同じとは言えませんが。
家康が若い秀頼を恐れたように、ローマもフェニキア人を恐れたのでしょう。
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