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#5 世界史からの考察:壬申の乱はただの後継争いではない

こんにちは、クロノ(@chrono_history)です。

壬申の乱(じんしんのらん)とは、672年起きた天智天皇の後継をめぐる争いです。

古代版「関ヶ原の戦い」ぐらいのインパクトがある戦いでした。

天智天皇の息子(大友皇子)と弟(大海人皇子)の争いです。

最終的には大海人皇子が勝利して天武天皇として即位します。


壬申の乱が起きた7世紀の世界

西ではイスラームが登場、東では唐が隋を滅ぼし大帝国を築き上げます。

隋や唐は朝鮮半島を必要以上にねらいます。その理由は、今であれば「海が欲しかったから」と答えるのが正解なのでしょうが、当時の中国歴代王朝はそこまで海にこだわりません。

じゃあ、穀物を育てる土地が欲しかったのかといえば、そこまで豊かな土地もありません。

唐が隋を滅ぼせたのは、隋が朝鮮の北部に存在した高句麗遠征を繰り返して財政難となったからです。唐の時代も、高句麗を攻めるために朝鮮の南部にあった新羅と挟みうちにしようとしました。

なぜ狙ったのか?

隋と唐の共通点、漢民族ではなく異民族の王朝であること。

純粋な漢民族ではなく、混血しているものの元をたどると先祖は鮮卑族でした。両者とも異民族であることを隠そうとします。

そして漢民族の正当な王朝であることを示すためなのか、漢王朝の復興を目指そうとします。
漢の武帝は朝鮮に楽浪郡を設置して支配しましたが、後に破壊され高句麗が興りました。

「壬申の乱」は内戦ですが、「唐が高句麗を滅ぼしたかった」ということはおさえておきたいポイントです。

「白村江の戦い」という悪夢

壬申の乱(672年)の前に「白村江の戦い (はくすきのえのたたかい)」という一歩間違えれば日本がなくなったんじゃないかという戦いがありました。(663年)

きっかけは百済の滅亡です。唐と新羅の連合軍が高句麗ではなく百済を攻めて滅ぼします。(660年)

百済残党に助けを求められた日本は、軍を派遣します。そこで起きたのが白村江の戦いです。結果は完全敗北。

日本が唐(正確にいうと唐・新羅連合軍)に完敗したことを覚えておいてください。

その後、日本は国を守ることに徹します。ただ、唐は攻めてこなかったんですね。理由は、高句麗遠征を優先したからです。

※668年に高句麗は滅ぼされ、唐は平壌に安東都護府を置きます。

同じパターンで助かったことがありまして、聖徳太子が隋に贈った国書の内容が失礼だったということで問題になったときのことです。

このときも、(唐ではなく隋ですが)高句麗遠征で忙しく不問とされました。「しょうがないね。蛮族は」という感じで流してくれることが時々あります。

というか聖徳太子は、あえてこのタイミングを狙ったとも言われています。タイミング的に隋はそれどころではないことを分かっていて、相手が不快に感じる国書を贈ったのです。

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。

「日出る処」とは日本を指します。「日没する処」とは隋(中国)を指します。「没する」ってイメージ悪いじゃないですか。

隋は不快に思うわけです。というか、「上下関係無視して対等に話しかけてくるんじゃねぇよ(怒)」と思ったことでしょう。

ここに中国との上下関係を解消しようという聖徳太子のねらいが見えるわけです。普通に言ったら怒られるし、何されるか分からないけれども、
今なら余裕でしょ~。という感じです。

壬申の乱が起きる前の日本は、中国との上下関係解消をねらっていたことも覚えておいてください。後から大事になります。


外交問題が引き起こした古代最大の内乱


白村江の戦いは、ただの後継者争いではなく、外交問題が引き起こした古代最大の内乱とも言えるのです。

「唐と仲良くして新羅を滅ぼす」

「新羅と仲良くして唐の脅威を退ける」

天智天皇は、どちらかといえば前者側の人です。そもそも、日本滅亡のピンチになった白村江の戦いで陣頭指揮をとったのは、この人ですからね。
※天皇になる前、中大兄皇子と呼ばれていたころの話。

子どもの大海人皇子も、父親と同じ側にたつのは自然なことです。ただ、国内の民衆からすると「えっ?」と思う人も多かったことでしょう。白村江の戦いで、親や子を失った人は多かったでしょうから。

対する大海人皇子は後者、「新羅と仲良くして唐の脅威を退ける」側の人です。

※「新羅」に特別な思いがあるというより、敵の敵は味方ということでの新羅推しのように感じます。

天智天皇は弟の大海人皇子を皇太子にして丁重に扱っていました。しかし、息子を天皇にしたくなったのか、大友皇子を太政大臣につけています。

天智天皇は皇子のころクーデーターを起こして、時の権力者である蘇我入鹿を暗殺しています。このままいくと天智天皇に何をされるか分からないと感じた大海人皇子は、大友皇子を皇太子に推挙して自身は出家します。

天智天皇が崩御したあと、大海人皇子は決起し、大友皇子を自害に追い込みます。

世界史の視点でみると、壬申の乱は「親唐派」と「親新羅派」の代理戦争だったと言えます。

天武天皇として即位したあと、新羅との関係修復に着手します。「天皇」「日本」という言葉が正式に使われ始めるのもこのころです。

まとめると、、、

出が異民族という負い目がある隋や唐が、上下関係を強制しようとすることにNO!と言った聖徳太子。

百済に肩入れしすぎて国を滅ぼしかけた中大兄皇子(天智天皇)

天智天皇が後退させた中国との対等関係構築路線を正しい位置に戻した聖武天皇。

となります。

その後

壬申の乱から4年後、676年に新羅は安東都護府を破り朝鮮半島を統一します。

唐にとっての不運は続き、滅ぼしたはずの東突厥が再建、せっかく支配下においた草原の道ルートが再び遊牧民族に奪取されます。唐は皇女を降嫁させて和睦しています。

※「草原の道」とは、オアシスの道よりも北にあるルート。
2つの総称が「絹の道(シルクロード)」です。

草原の道を支配下におくということは、ユーラシア大陸東西の交易ルートをおさえるといういうこと。つまり財政を豊かにできることを意味します。


698年には渤海が自立します。ツングース系靺鞨人(まっかつじん)の大祚榮(だいそえい)と高句麗の移民とともに建国したのが渤海です。

このころ(7世紀末)になると唐は周辺異民族を抑えられなくなっています。

※今回は話を分かりやすくするため「日本」と表現しましたが、当時の状況を考えると「大和政権」のほうが正しいかと思います。


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