映画「ギルバート・グレイプ」
(1993年 アメリカ映画)
久しぶりに見ました。これほんと名作です。
映画館とビデオレンタル合わせて数回見ているんですが
前は”切ない”なあって思ったけど、今回は”哀しい”って思いました。
そして、前よりも鮮明に浮かび上がった言葉は
”閉塞と呪縛”
それにしてもロン毛のジョニーデップは美しい。ため息出るくらい。
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アメリカの片田舎が舞台。
ギルバート・グレイプ(ジョニーデップ)は地元の小さな食料品店で働きながら、肥満のために歩くこともままならない母と、知的障害のある弟アーニー(レオナルドディカプリオ)を姉、妹と共に世話している。
母親は、夫が家の地下で首つり自殺をしたことをきっかけに太り始めたらしい。
景色はとてもきれいだけど住んでいる者にとっては退屈という
田舎町の閉塞感がストーリーのベースにある。
でも初めて観た時はそれがわからなかった。私はアメリカ文化に憧れてた女子でしたから、どんな田舎でもアメリカはアメリカじゃん、いいじゃん、だったんですね。
で、今、結婚して子供を持って、感情移入できるのは、ギルバートが付き合ってる人妻でした。
不倫に共感というより、このままこの町で夫と子供の世話して生きていくの?私?という閉塞感。しかも美人さんですよ。不倫がしたいわけじゃない、ただ、あたしこのまま終わっちゃうの?、という焦燥感、わかるなあ。
ギルバートと付き合った理由は、彼女曰く、彼が「この町から出て行かないから」
彼女だって、出て行きたければ出ていけばいいのに、なぜかそこにいなければならないと思ってる、町、家庭に縛られてる人妻。
人妻の夫は、妻の不倫に気づいていたのか、いなかったのか、
そこに答えはありません。観る人の想像にゆだねられている。
たぶん、気づいていたんだろうけど、不倫を責めることで、妻を失うことがこわかったのかな。
そう考えると彼もまた土地と家に縛られた人なのかも。
首を吊って自殺したギルバートの父。首を縛る、、縛るの象徴?
彼もまた何かに縛られていたのでしょうか。
夫の自殺をキッカケに肥満になり、
子供たちに世話してもらわないと生きていけないお母さんは、一見かわいそうな人にも思えるけど、
実は、子供たちが自分のそばから離れないようにするために肥満になった、
とも言える。
自ら家に自分を縛り付けることで、安心感を得ているようにも見える。
そこが人間の不思議なところで、第三者から見たら、不幸なのかもしれないけど、その不幸こそが、その人が潜在意識で望んでいる現実でもあるという、人間ってけったいな生き物やなあと、思うんですよねえ。
かわいそうな私、かわいそうな子供たちという状況が
本人の深い意識の中では、決してマイナスではない。
町の人たちから奇異な目で見られる。
その奇異な目の裏で
「あの人、夫が自殺してああなっちゃったんだよ、かわいそうね」
という憐憫を起こさせることができるのかもしれない。
結構スピリチュアルなんですね、このお話。
ギルバートはトレーラーで旅するベッキー(ジュリエットルイス)と恋をするんですけど、彼女はまさに自由の象徴です。
何者にも媚びない強さと、なんでも受け入れる器の広さ。
ジュリエット・ルイス、ほんとにかわいいなあと思いました。
アイドル的なかわいさじゃないんですよね、静けさと知性と寛容
女神か、菩薩か、そんな佇まいなんです。
家に縛られるギルバートと家を持たないベッキー、
地元の食料品店と大型スーパーマーケット、
対比的モチーフを効果的に配置することで、閉塞と呪縛というテーマが
より浮かび上がる仕組みになっているのがすごい。
後半、ギルバートは弟のアーニーを殴ってしまうんです。
頭ではそんなことやっちゃいけないとわかっている、アーニーは俺が守ると
誓っていたのに、やってしまう。
めちゃくちゃ哀しいシーンです。
暴力をふるうことが哀しいんじゃない、頭ではわかっているのに、いけないことをやってしまう人間の性が本当に哀しいなあと思いました。
そういうこと、誰にだってあるじゃないですか。
こうしちゃいけません、ああしちゃいけません、正しいことはいくらでも
言える。
だけど、やっぱり人はダメな自分になってしまうことがある。
人生は後悔だらけだったりする。死にたくなるくらい。
物語とは人に寄り添うものなんですね。
きれいごと言ったり、教訓並べたりするものじゃない。
哀しみ、寂しさ、そういうの見せてくれるから素晴らしい。
ラストはとても希望に満ちあふれています。
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