他人に頼れない心の枷
神奈川県で昨年11月、80代の夫が、79歳の妻を車椅子ごと海に突き落として殺害したという事件があり、昨日、懲役3年の実刑判決が出たとのことです。老々介護によるこうした事件は、過去にも起こったことがあり、そういう場合は執行猶予がつくことが多いのですが、今回は「周囲のサポートを拒んでいて、典型的な介護疲れの事案と同一視できない」という理由で、実刑判決になったようです。
ただ、記事の内容を読んでみると、介護は40年にわたり続いたということで、かなり若いころから介護を続けていることや、妻が脳梗塞で倒れた際にも仕事が忙しくて家を出張で空けていて、家で倒れていることに気づかず、発見が遅れた、それを医師に責められて、自責の念から仕事をやめて介護を続けたようです。
後悔と罪滅ぼしの気持ちから、献身的な介護に没入し、周囲のサポートも、自分の中にある気持ちがそれを許さない、それを頑固ともいうことはできますが、現実的に、過去、自分の過ちで親しい人が亡くなったり重度の障害を負った人は、それ以降、自分に重い枷をはめて、終生、自らが考える「罪」を償うという行為は、いろいろな事件であるように思いますし、その枷を外すには、宗教であったり、運命的な人の出会いであったり、とにかく、自分の心を大きく変えるようなことがないと、日常の延長線上の先でそうした気持ちが薄れて枷が外れるということは、あまりないように思います。
今回の場合、息子さんもいたようで、そのサポートも受けられたじゃないか、ということのようですが、親子関係が一生を通じて安定的に良好というのは、むしろレアなケースだと思いますし、ある程度サポートを受けられる関係であったとしても、働き盛りの息子さんが介護のサポートをするのは相応に負担となり、本人の罪の意識もあり、これ以上は周囲に負担をかけられないと考え、周囲のケアを拒む、しかし、そうした心の枷と、身体的精神的な疲労との板挟みになり、つい、妻に手をかけることになってしまったのだろうと、我がことにひきよせて、何となくやるせない気持ちになりました。
人が生まれてから、健やかに成長し、大過なく生を全うするのは、有難いことであり、今の環境がそこまで追い込まれた境遇でないのであれば、そのことに感謝し、できるだけ、困った苦しい思いをしている人には、寄り添う気持ちを持ち、今日も人と向き合っていこうと思いました。