キズを受け入れる
昨日、画面が割れてしまったスマホですが、とりあえず100均で保護フィルムを遅ればせながら購入し、割れた画面の上をきれいにしてから、保護シートを張り付けました。
今のところ、割れた画面を直接触れることで感じる、指の引っ掛かりがなくて楽であり、割れた箇所も左端下部が中心であることから、とりあえず使うには、支障のない状態。
割れた画面に保護シートを張ったところで、まさに「あとの祭り」なわけですが、かといって、今はいろんな意味で、スマホを購入するタイミングではないと感じており、キズが深部の液晶に悪さするなどして、スマホが使えなくなるようなことがない限り、少し様子見ですね。
キズついたスマホ画面を見るのは、確かにあまり気持ちのよいものではありませんが、一方で、このキズは、自分の不注意が原因であるため、八つ当たりでもしない限り、自分の中で解決すべき問題です。
僕の気持ちが一時の動揺から立ち直り、事態を消化する中で、今はキズを愛するとはいかないまでも、自身の戒めとする、という立ち位置で評価できるようになっています。
スマホは、姿を持つ主好みに変える力を持っており、いつしか持ち主の望む世界の多くのを取り込んでしまい、持ち主がスマホから離れられないようにする、スマホ自体に悪意はないのでしょうが、所有者の求める答えを出し続けるので、いつしか寵愛を受けてしまう。
何か、手塚治虫の火の鳥に出てきた、変幻自在に自らの姿を変化させることで、人間の心を奪ってしまう不定形生物、ムーピーのような存在だなと、思えてしまいます。
画面が割れたスマホになったことで、スマホ画面と向き合うたびにそのキズが目に入ります。ネットサーフィンに時間を奪われそうになるとき、つい余計な買い物をしてしまいそうになるとき、「少し距離を置いてみよう」と自分に問いかけることで、何かに追い立てられて落ちそうになる心に、ブレーキをかけてみる。
こうした意味づけを今回の出来事に与えることで、何か問題が起きたときにすぐに新しいものを手に入れるのではなく、まずは今あるものを活かして戦線を維持しよう、手持ちの資源で乗り切ってみようと、工夫する心やものを大事にする心を、生活の中心に置いておきたいと思います。
スマホは便利な道具ですが、それに頼りすぎない生き方を模索することが、豊かな生活の一環なのかもしれません。
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