見出し画像

理想の住まいを探す過程が一番楽しい

 母の次なる住まい探しについては、前回、候補のサ高住を見に行った直後に、理想に近い場所にあるサ高住の部屋に、空きがあることがわかり、母も乗り気であったことから、今度こそ決まるのでは、という雰囲気が、昨日の朝までは高まっていました。

 母を現地の見学に連れていくことについては、弟にアレンジをお願いし、昨日の夕方がまさにその日でした。で、弟にラインで聞いてみると、母が乗り気ではなく、仮契約などもせずに帰ってきたとのこと。

 弟は前に、すべての段取りを整えて次なる住まいを用意したにもかかわらず、母にちゃぶ台返しをされたので、行く前から半信半疑だったようで、案の定ね、という冷めた反応でしたが、僕としては、ガクッときてしまいました。

 ただ、僕の胸の中には、決まって欲しいという思いがあった半面、難しいかなという気持ちも正直あったんですよね。

 一つは、部屋数と居住空間としての機能が足らないこと。

 母は、今の住まいのあら探しだけは熱心なので、あれこれあげつらうダメな理由の一つに、3つという部屋の数が多すぎることを挙げるのですが、実際は、いろいろ考えると、3つはないと快適な生活は送れないだろうとは思っていました。

 寝室と居間は別が良いし、父の御仏壇は寝室や居間とは別にしたいと、常々話をしていたからです。

 サ高住の1人部屋は、食事や入浴、洗濯などは共同が前提なので、部屋は一つで、付帯設備はトイレと洗面台があるぐらい、調理スペースもありません。安全面ではその方が良いのですが、曲がりなりにも自立して過ごしている母には、物足りないと思ったのでしょう。

 もう一つは、一緒に生活する高齢者のこと。

 これも、きわめて自分基準の考え方なのですが、母は年寄りだけの集まりには、行きたくない、ましてや、介護状態の人たちばかりの施設には暮らしたくないという思いがあります。最低でも母と同じぐらい、自立した生活をしている人たちの集まりが良いし、できれば若い人、家族連れがいたほうが良いという考えです。

 では、子ども夫婦と同居近居できるかといえば、母の思いは都合の良い部分を切り取った自分中心の人間関係で、自分では努力をして近づこうということはせず、母、祖母というだけで敬われるべきと考えているので、仮に近くに住んでも、自己中心の母に家族が付き合うはずもなく、破綻することが目に見えています。

 サ高住に住めば、人との触れ合いが増えるという面では、寂しさは紛れますが、逆に人付き合いが濃くなると、自分の心に自己肯定の物語を持っていない場合、他人のことを羨み、自己の境遇を呪うという、負のスパイラルが加速しかねない、そういう危うさはあると思っています。

 人が周りにいようが、自分の魂は孤独だし、自分の幸せはよそから与えられるもの、という思いがある限り、いつまでもそんなものは与えられず、不幸自慢の道を歩むしかなくなります。

 まあ、引き続き、住まい探しはしますけど、母も自分の思うような理想の住まいなどありはしないと、薄々感じており、住まい探しのプロセスが一番楽しいわけで、母も気づいていないけど、ここに結果を出すことを、心の奥底では求めていない、そんな気もしています。

 住まい探しは骨が折れるし、見つかるまでグチグチ責められ、こちらが反論するとなぜ母である自分をいじめるのか、恩を忘れたか、自分はこれまで大変な苦労をしてきたと、改変の物語の殻に閉じこもり、息子には無限の奉仕を求める。

 無理に解決しようとせず、これまでのかわしのスキルにより、不平不満を聞き流しつつ、時々、イベントを発生させて、希望の栄養補給をする、そんな感じで、相手をするしかないのかな、これは長期戦を覚悟するしかないなと、思い始めています。

 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?