武勇伝は大事だけど、武勇伝おじさんにはならないために
年を重ねれば、それなりに苦労を重ねてきた人ほど、苦労したエピソードの数々は、歳月を経て振り返ると美しい結晶になっており、よほどの黒歴史でない限りは、肯定されるべき自己の人生の物語の一部になっていると思います。
こうした苦労したエピソードは、武勇伝と言い換えることもでき、もう少し控えめに言えば、成功体験という言葉を使うこともできるでしょう。ただ、これを他人に提供するときには、細心の注意が必要であり、安易にストレートで披露すると、スルーされてしまうし、語るほどに自分の現在価値を落とすことになりかねません。
忌避すべき武勇伝おじさんになるわけです。
もちろん、ストレートに語ることは、気持ちがいいし、何度話しても楽しいし、往々にして、自覚していなくても、繰り返し同じ話をして、場合によっては語るたびに話が盛られることになります。
本人はさほど気にしていなくても、繰り返し聞かされる側はたまったものではなく、時間を奪う分、一種のパワハラになってしまいます。
とはいえ、武勇伝自体は決して悪いものではありません。人を導く立場にあるなら、自分の経験を伝え、後進の参考にしてもらうのは大事なことだと思いますし、僕自身も、先輩たちの話から学んだことは多くあります。
なので、すべてが害悪ではないわけですが、あまりに特異な状況における、しかもそれって今は通用しないでしょう、汎用性なさすぎでしょうといったことは、自分の問題として受け止められないので、単なる自慢話に堕してしまうわけです。
僕がこうした話をするときに、意識しているのは、相手に応じて「咀嚼して調合する」ことです。
つまり、自分の経験をそのまま渡すのではなく、相手が受け取りやすい形に加工する。たとえば、過去に大変なプロジェクトを成功させた話をするなら、「その時、自分がいかに苦労し頑張ったか」ではなく、「その経験からどんな教訓を得て、それを今どう活かしているか」に焦点を当てるようにしています。
そうすると、相手も「なるほど、そういう考え方があるのか」と、自然と学びを得られるように思います。
ただ、これは別の難しさがあり、武勇伝の「生の部分」には、試行錯誤のプロセスが詰まっています。そこを抑えすぎると、今度は話が薄っぺらくなってしまい、何故そうした判断や結論に至ったのかが、わからなくなってしまいます。解答が書かれていても解説がほとんどない、不親切な問題集に似たものがあります。
というわけで、相手の機に応じて咀嚼し、調合する、ステロタイプにならない伝え方が、求められることになります。
また、武勇伝の根源には、他山の石として見ていると、ほぼ例外なく、過去にその人の人生のピークがあり、そのピークの輝きを今に伝えたいという思いがあるのでしょう。
どうしても年齢を重ね、いろいろなものを手放してしまえば、過去の権威、栄光、苦労を持ち出したい、目をかけた部下には借りを返してもらっていないという思いがあるのはわかりますが、
自分が先達の恩義を相手ほどは感じていないののと同様、部下や後輩は自分のしてきたことに恩義を感じてはいません。そこを恩着せがましくすると、やはり自分の現在価値を下げてしまいます。
もちろん、自分の立場からは、恩義のある人への感謝の心は、忘れないように心がけたいと思いますが、自分は、過去に拠るのではなく、過去の連続性の先にある現在の自分を肯定し、未来に向かってさらに高めていく種まきをすることで、逆に過去を語るいとまのないほど、今の自分を磨いていく、
どこまでそれを続けられるかわかりませんが、年齢を重ねても、いつまでも現在と未来を語る自分でありたいと、思った次第です。