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社会的役割を外れた高齢者の時間軸の受け入れと傾聴
僕の母は、認知症の初期段階にあります。ただ、今のところは日々の生活における支障はあまりなく 比較的しっかりしていて、有り余る時間を使いさまざまなことを思い巡らせています。
ただ、それは特定の、嫌な思い出や昔の出来事、あるいは現在の心配事などが多いです。そして、その考えを、僕との1日1回の電話で話すのが彼女の日課になっています。
正直に言えば、その内容は多くの場合、僕から見て「詮無い話」に思えることが少なくありません。
「今さらそれを話してどうするんだろう」とか、「そんなこと考えなくてもいいのに」というようなことがほとんどです。最初のうちは、こうした話を途中で切り上げたり、「それは気にしなくていいよ」と早々に話題を変えたりしていました。母の話に耳を傾ける時間も、僕の仕事や生活における価値基準や効率性と照らし合わせてしまっていたのです。
でも、ある時、この「詮無い話」も、母にとっては彼女なりに考えた結果であり、それを無視するかのような言動をとることは、母なりの思索の価値を否定してしまうことになるのではないかと。
母には現在、社会の一員としての役割は与えられていないため、日々の生活の中で、自分なりに時間を使って物事を考えている。その成果を息子である僕に共有してくれるのは、きっと信頼の表れであり、彼女にとっての大切なひとときなのだと思うようになりました。
そこで、最近は電話の際に母の話をきちんと聞く時間を設けることにしました。だいたい10分程度と決めていますが、その間は母の話に耳を傾け、途中で否定することも遮ることもせず、受け止めるようにしています。
同じ話の繰り返し、詮無い話の連続が多いので、ハッキリ言うと、僕にとってはどうでも良い話ばかりです。
それでも、「話を聞いてもらえた」という満足感は、母にとって意味のあることだと思えるようになりました。
このようなやり取りを続ける中で、ふと「これがいわゆる『傾聴』ということなのかもしれない」と思いました。
傾聴という言葉は、介護や福祉の現場でよく耳にしますが、実際に自分がその立場になると、「ただ話を聞くこと」がいかに大切であり、同時に難しいことかを実感します。
相手の話が自分にとって価値あるかどうかではなく、相手が大切に思うことを共有し、それに耳を傾けること。それが、話し手にとってどれだけの安心感や心の支えになるのかを感じています。
僕の母のように、社会的役割から離れ、時間を持て余す高齢者は少なくないと思います。そして、そんな高齢者の話に耳を傾けているのは、僕のような家族や、施設のスタッフの方々なのかもしれません。
誰かの話をただ受け止めるという行為には、思った以上に深い意味と価値があるように思います。それに気づけたことで、僕自身も母との時間を少しだけ大切に思えるようになった気がしています。