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痛みの価値
昨日は、何気なく漏れ聞いた経営トップの発言に、僕の中に存在する、社会的にはマイノリティなんだけれども、僕のアイデンティティともいえる価値観を傷つけられる内容があり、その後は、モヤモヤとしたものを抱えつつ、なんとなく調子が出ない一日を過ごしました。
もちろん、人それぞれに価値観があり、すべての人が同じ価値観を共有する組織なんて存在しません。そんなものは、宗教団体の中でも特に排他的な集団ぐらいなものだと思います。したがって、経営トップの考えが僕の考えと異なること自体は至極当然のことです。
ただ、僕の中のマイノリティのアイデンティティは、これまでも何度か、無理解と無遠慮により踏み込まれてきており、その辛さを共有できる相手もいないので、そのダメージを受けるたびに、心のケアが必要で、その積み重ねが僕の中に、「内なる琴線」のようなものを作り上げています。
この「内なる琴線」は、誰にも理解のできないものであり、この、マイノリティの価値観が表出している事象を、知る人はいますが、その人たちの理解は、変わってるし、なんでと思うけど、害はないからな、という程度であり、おそらく、僕のアイデンティティの危機に関わるなんてことは、思い至っていないでしょう。
自分自身の痛みは相当なものながら、そんなところに痛覚があるとは他人は思い至らないし、僕もそれを言っても理解できないと思うから、口に出さないので、向けようのない感情は自己を傷つけ、自己嫌悪となり、大げさですが、自分の人生を否定したくもなってしまいます。
ただ、こうした僕の中でのマイノリティの傷への痛撃も、悪いことばかりではありません。僕もまた、知らず知らずのうちに、マジョリティの立場で誰かを傷つけてしまったことがあったのではないか。自分では全く意図していなかったとしても、その言動が相手にとっては心をえぐるようなものだったかもしれない。
そう考えると、自分の痛みが他者への配慮の欠如を自覚させる重要なメッセージだと気づかされます。
また、自分自身もここ数年、自己の人生を肯定的に捉えて未来への糧とする、内なる運動の中で、厄介な価値観との共存についても、肯定的に捉えられるようになっています。
マイノリティの価値観を、内なる懐かしい古き友人、少し厄介だけど愛おしい心の同居者と思えるようになった、そんな感じですね。
痛みを通じて、他人の想像しえぬ痛みがある可能性に思いを致し、同時に、漫然と過ごせば光陰のごとし自分の人生を、立ち止まって棚卸しする契機ともなるわけで、この痛みの価値はある、そうした思考の着地をすることで、今日の扉を開けて前向きに進んでいきたいと思います。