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平和の配当に至る犠牲を考える

 先日の米大統領選挙を契機に、僕自身、前々からもやもやしていた「平和の配当」という言葉について、あらためて考えるようになりました。

 平和の配当とは、軍事力に頼らず、他国との協調や譲歩によって得られる利益や、戦争を避けることで得られる安定といったものです。

 ただ、現実には、平和の配当はやすやすと実現することはありません。

 昨今の国際情勢においても、戦争がエスカレートして、もはや後戻りはできないところまで、双方の犠牲が積みあがってしまい、どちらかが力押しにより相手を粉砕してメインエンジンを停止させるまでは、終わらないような気配が漂っています。

 こうした妥協する余地のなくなった事態に陥ることは、個人レベルであれば愚かしいことなんですが、
国家の争いにおいては、一時の平和の配当を得るために、目先の対立を避け、宥和政策を取ることは、将来に禍根を残し、より大きな災厄をもたらすということで、
戦争により人命や財産を大きく損なっても、国土と主権を守ることに至上の価値が置かれて、そこに命を捧げる人が賛美される図式になっています。

 とはいえ、力押しの先に勝利があるのかといえば、そう甘くはないわけで、最前線での膠着状態の維持に人命が多く損なわれている状態の中、指導者が言うところの「崇高な目的」なるものに命をかける人がいる一方で、そうした犠牲を強いられることのない人がいるという事実もあります。

 個人が国家の存続のために、どこまで犠牲を強いられるのか、国防を声高に主張することが本当に正義なのか、僕は疑問に感じることがあります。

 確かに、戦わずに譲ることは屈辱的に思えます。国としての尊厳や誇りを傷つけられることに対し、誰しも抵抗を感じるでしょう。けれども、国の誇りや名誉を守るという大義名分のもと、兵士や一部の国民が命を賭して戦わなければならないという構造があるとしたら、どうでしょうか。

 国家を守るために「役割分担」があり、その中で先兵となる人が犠牲を強いられる。そうした人たちは、国家の名誉や誇りを守るために戦い、命を捧げることを求められています。しかしその一方で、安全な立場にいる人も少なくないのが戦争です。

 戦争は、いずれは終わりますが、往々にしてそこには、当初求めていた完全な勝利はなく、生き残った者同士、口実を見出して、頃合いをみて終わらせた、そんなパターンが多いように思います。

 戦争中は国家の大義を主張しながら、戦争の終結にあたっての役回りを担うことで、大義に振り回された人々の犠牲の上に、平和の配当を取り戻す役割を果たした人の名が、歴史には刻まれることになり、先兵として戦場に出ていった人たちは、配当のために自らの命を差し出したことになります。
こうした不均衡があるなかで、果たして国家を守るために犠牲が避けられないと強調することが、本当の意味での「正義」なのか。

 平和を守ることが必ずしも正義と結びつかないというのは、残酷な事実です。僕は、国家が名誉や誇りを守ることのために、犠牲を強いられる人たちが生まれる現実に対して複雑な思いを抱いています。そして、それが果たして本当に必要な犠牲なのか、あるいは、別の道はないのかと考えずにはいられません。

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