本の裁断についての個人的所感
最近、本を裁断して電子化する、いわゆる「自炊」という行為が広く知られるようになりました。本棚を圧迫する書籍を減らし、電子デバイスで手軽に持ち運び、どこでも読めるようになるという利点は確かに魅力的です。メルカリなどでも、裁断済の本が売りに出されており、売れているところをみると、古本市場でも需要はあるようです。
僕もその便利さは理解していますし、実際にそれを実践している方々の合理性には納得できます。しかし、僕自身にとって本を裁断するという行為は、なかなか心理的にハードルが高いのです。
本にはその内容だけでなく、物理的な存在感が大きな意味を持つと思っています。本の重量感、紙の手触り、装丁の美しさ――これらは単に「物体」としての特徴ではなく、その本を読むという体験全体の一部です。
ページをめくるときの感触や、紙の匂い、読み終わった後に本を手にして余韻に浸る瞬間。そういった要素が、僕にとって本の魅力の一部であり、それを裁断してしまうことで失われるのは、あまりにも惜しいと感じます。
また、本との「関係性」というものも考えます。本棚に並んだ本を見るたびに、読んだときの記憶や、その本が教えてくれた知識や感情が蘇ることがあります。
手に取ってページをめくれば、特に印象深い部分に残した折り目やメモが、過去の自分と現在の自分をつなげてくれる。裁断して電子化すると、それらの「痕跡」はデータに置き換えられるかもしれませんが、その手触りやリアルな存在感は永遠に失われてしまう気がするのです。
もちろん、例外もあります。例えば、分野別問題集や辞書のような書籍は、全体を俯瞰する必要がなく、特定の部分を繰り返し読むために便利さを重視することがあります。
そういった本なら、裁断してバラバラにすることで効率が上がるのは間違いありません。それでも、僕にとって裁断できるのは、それが「消耗品」として扱える本に限られます。愛着や特別な価値を感じる本を裁断するのは、どうしても抵抗があります。
また、裁断した後のことを想像すると、本そのものが持つ「重み」がなくなることにも不安を感じます。電子データになれば、確かに検索や携帯性の面では便利です。しかし、その便利さの代償として、物理的な存在感や本そのものが与えてくれる感覚的な喜びを失うのは、僕にとっては大きなマイナスなのです。
また、僕にとってある種の本については、人生に連れ添ってきた、かけがえのない「友人」でもあり、これまでの歳月の経過も刻まれた、二度と手に入れることのできない存在であることも、本を単なる情報媒体として付き合うことに抵抗を感じる理由かもしれません。