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七夕以降のつるべ落としの日々で、何をなすべきか

 金曜日は母のところに行ってました。

 最近は、とみに、記憶力が落ちているというか、直前にやっていたことを忘れがち、そんな感じなんですよね。近くに人がいて話をしてあげれば、思い出すのですが、そうしたトリガーがないと、何となく時間に流されてしまい、前にやったことを連続的に覚えていないので、わけがわからなくなってくるようです。

 買い物にも時々行っており、食事のほうはちゃんと食べているようですし、たまに通販で健康に良いものを注文していたり、冷蔵庫の中身は整理されている、洗濯や掃除、入浴や歯磨きなどもしっかりやっているようなので、一人暮らしはできるようですが、認知機能が落ちているのは確かのようです。

 認知機能が落ちてくると、複数の要素を同時に勘案して判断するようなことが難しくなり、その時に思いついた考えでしか判断ができない、オールオッケーのような事案であれば、誰でも「これで行こう」と判断できるわけですが、
いわゆる、メリット、デメリットの比較考量をして、どちらの選択肢もありだけれど、先を考えると、第一に優先すべきは何かという視点で判断すると、苦しいけれど、こっちしかない、そういう精妙な判断は、頭がしびれてしまうので、難しいようです。

 このへん、家探しで最近、弟と母が大ゲンカしたのは、こうした母の認知機能が落ちているところに、限られた時間内で何を優先するかを急に問われたので、わけがわからなくなり、母も言い逃れのようなことを弟に話したので、必至に家探しをしていた弟が激怒した、というわけで、誰かに決めてほしいという母の思いも、わからなくはない気がします。

 とはいえ、そもそも過去の自分の感情や判断した過程は、かなりの部分、心の靄の中に消えてしまい、そんな判断を自分がしたのか?そんな覚えはないとなるので、周囲の人間には、母に代わって判断するのも、ある意味怖いわけです。

 認知機能の低下は、個人差があると思いますが、若いころの水準が高い人でも、年齢を重ねれば急降下して、そういう人ほど、若いころの認知の冴えの記憶だけはあるので、自分でなんでも決められると思っていて、周囲をかき乱す、組織においても、そうした人は少なくないような気がします。

 定年延長は65歳になり、さらに70歳になっていくのかもしれませんが、認知能力を酷使する経営幹部は、65歳といったところがやはり限界なのではないでしょうか。

 母の認知機能のゆるやかな低下を目の当たりにして、今後、どうしたかたちで母に「できない」ことを認めさせ、手放させるかということは、どこかで向き合って話す必要があるでしょうし、自分の行く末においても、認知機能の低下に見合った役割を果たしつつ、社会とのかかわりを続け、尊厳を持って生を全うする、こうしたある程度「振れ幅」のあるロードマップを描き、その実現に向けて今やるべきことは何かを見据え、集中して取り組んでいきたい、と思います。

 年齢的に、なんでも旺盛に知識を吸収するというのは、個人的には楽しいのですが、そこはまずは抑え込んで、限られた認知能力をまずはどこに振り向けるか、そのうえで余剰分をどんな感じで使いこなすかについて、日々、心を躾けていくことは、ルーティンに流されないなさためにも大事ですね。

 暑さが収まる気配はありませんが、今日は七夕。

 夏至を超え、日が短くなるフェーズに入り、着実に秋に近づいています。

 秋になれば年末、年末を迎えれば出会いと別れの3月という感じで、後半は井戸の釣瓶を落とすようなスピードで年越しを通過し、3月に進んでしまう、今年の年初の目標って、やってるわりには進んでいない焦りはあります。
とはいえ、自分でも昨年とは違うかたちでの、内面の変化は感じており、いかにそれをアウトプットとして出していけるかですね。誰にも知られなければ、僕の持つ価値が可視化され、買われることはないわけですから。

 この価値を見出す先で、僕は自由を得て、母に今以上に寄り添う、これも現状打破の動機の一つではあり、動機を与えてくれた母には感謝です。

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