劇団あはひ「どさくさ」@下北沢・本多劇場
劇落語「粗忽長屋」*1を下敷きに生と死のあはひ(間)を描く。この集団の舞台を観劇するのは今回が二度目*2なのだが、本多劇場の広い空間を完全に使いこなし、俳優の演技も含め若手トップ級。学生劇団(メンバーは全員早稲田大学の3年生)としては破格の実力を見せつけた。
テキストは「粗忽長屋」から取ってきたが、落語の諧謔ぶりを笑いに消化するのではなく、自分の死体を自分が発見し、死体を抱きながら「抱かれているのは確かに俺だが、抱いてる俺は誰だろう」というという不条理の構造を死者の亡霊を召還する能楽「隅田川」*3のテキスト構造に接近しながら提示している。
日本の古典演劇の代表でもある能楽が複式夢幻能*4という形式で死者の霊や異界のものを示現させるという形式を提示したこともあってか、日本では現代演劇でも類似の構造を持つ演劇はたびたび現れたが、多くのものは日本の古典演劇の様式も借り受けた「語りの演劇」であった。
ところが、あはひの場合、今回は特に中間項として話芸である落語を媒介としたこともあってか、落語が得意とする怪談噺のように「日常」を淡々と描いた会話劇の体で進んでいき、気がついてみるとそこに「非日常」である怪異が極めて自然に姿を現している。何の変哲もなく思われる上演が実は平凡ではないこと。ここに劇団あはひの魅力はあるのではないかと思う。
平凡な会話と表現したが興味深いのは日常的なさりげないセリフの中で唯一取り上げられていたのが小津安二郎と「晩春」についての話題であることだった。現在、ここ30年ほどの現代演劇の源流となっているともいえる平田オリザ「東京ノート」が原典版とインターナショナル版の2バージョンで連続上演されているが、これも小津安二郎「東京物語」の本歌取りをした作品。こちらにはフェルメールが自分たちの方法論を準えたような作家として取り上げられるが、ここで話題に出てくる小津安二郎もわざわざそれが会話の話題に唐突に選ばれる不自然さはあるし、平田がフェルメールを登場させたのと似たような意味合いがあるのかもしれない。この関係については考えてみたい*5。