考えさせられたヘレナとハーミアの美醜巡る解釈。演劇集団 円『夏の夜の夢』@吉祥寺シアター
「夏の夜の夢」はシェイクスピアのコメディーではあるのだが、結婚祝いの祝祭劇という側面も強く、笑いの密度という意味ではいまひとつという面はあるかもしれない。
パックの魔法の花によって、4人の恋人たちがアーデンの森を右往左往させられる場面は笑いどころのひとつで特にヘレナには見せ場が多い。過去に見た公演では片桐はいりが演じたヘレナには劇場の椅子から転げ落ちそうになるほど、大笑いさせられた。あるいはロバのボトムと魔法でそれに惚れ込んでしまう女王タイテーニアの場面も演出しだいでは大いに笑えるところだが、ここも今回はオトナシめの演出だった。ここでの笑いは控え目に抑えられ、笑いはベテランで芸達者な役者が集められた職人たちの場面に集約させられていたように思われた。
「なぜこういう感じなのか」を考えてみた。いささかうがち過ぎの見方かもしれないが、先に挙げたふたつの笑いがともすると容姿のよくない人を揶揄するようなルッキズムにかかわる笑いであって、シェイクスピアの作品ではよくあることだが、現代の世相では「そういうのはあまりよくない」と演出の鈴木勝秀が考えたのかもしれない。
なぜそう思ったのかというと今回の配役を見るとヘレナとハーミアにどちらもヒロイン役が演じられるような容姿に恵まれた女優を配役していることだ。台詞では「アテネ市民の評判では決してハーミアには劣らない美貌の持ち主だと言われてきた自分だけれど、愛する人の寵愛をハーミアに奪われた後は自分には価値がないと思ってしまい、世間の評判などなんの意味もないという」ような内容をヘレナがモノローグで語る。
実はこれまで見てきた「夏の夜の夢」の上演ではハーミア=美人、ヘレナ=美人度は落ちるが笑いを起こせる女優というキャスティングになっていることがけっこう多かったため、そういう印象を受けていたが、戯曲を虚心坦懐に読めば実はそうでなくて、この二人は男性のライサンダーとディミトリアスがよく取り違えてしまうようなどちらもどっちという存在と描かれているのに対し、やはりどっちもどっちとして描かれている。ヘレナとハーミアの容姿において優劣をつけるような演出がけっこう多いのはそちらの方が笑いを取れるからではないかと思う。
事実これまで見た「夏の夜の夢」のヘレナの中でもっとも笑わせてもらったのは先述した片桐はいりのヘレナで、つきまとっては足蹴にされる体当たりの演技がいまでも強く記憶に残っている。
ただ、先にも述べたようにそういう笑いが現代において望ましい話題なのかについては一考の余地はある。さらに言えばヘレナの容姿について揶揄するような笑いを取るとすべての魔法が解かれた後もディミートリアスだけはヘレナのことを好きになるという魔法が解けないままになっていて、それでめでたしめでたしと言われても釈然としないところがあった。だが、ヘレナとハーミアを交換可能な存在とする演出ではそこのところの不自然さは若干緩和されているかもしれない。