後期クイーン論に向けた序章として(1)「災厄の町」
エラリイ・クイーン「災厄の町」(ハヤカワ・ミステリ文庫)
「災厄の町」はエラリイ・クイーンの後期の代表的作品。ニューヨークの北方に位置する山麓の街であるライツヴィルを舞台とする連作「ライツヴィルもの」の第1作で同シリーズはこの後、「フォックス家の殺人」*1「十日間の不思議」「ダブルダブル」「帝王死す」「最後の女」と続く。
「災厄の町」の越前敏弥による新訳版がハヤカワ・ミステリ文庫として出版されたのは2014年12月だからすでに7年が経過しているが、旧訳版(青木勝訳)はすでに学生時代に読んでいるし、映画化された「配達されなかった三通の手紙」(1979年)も封切り時に映画館で見ている。今回この新訳版を読んでみることにしたのは、このほど「フォックス家の殺人」「十日間の不思議」とライツヴィルものの新訳が相次ぎ出版されたことに加えて、昨年の自粛期間中に京大ミステリ研究会時代に執筆したクリスティー論*2をこのブログに再録することにしたのをきっかけに英国現代ミステリを「ホワットダニット」の系譜として読み直してみようと考えたのに続き「フーダニット」の代表的作家として知られるエラリイ・クイーンについても再考してみようと考えたからだ。
「災厄の町」は作中の作家エラリイ・クイーン氏がライツヴィル駅に降り立ち「こうしていると提督になった気分だ。コロンブス提督に。」と述懐する場面から始まる。第一章の表題が「クイーン氏、アメリカを発見する」とあるのはどうしてなのかとしばらく読み進めてもピンとこない部分があったのだが、冒頭の作家クイーン氏がライツヴィル訪問をコロンブスのアメリカ発見に準えていることから来ている表題であることが了解される。「災厄の町」自体が作中のクイーン氏と同様に作者であるエラリー・クイーンが「米国の縮図としてのライツヴィル」を発見した作品ともいうことができるのではないだろうか。
ヨーロッパ的なものを描いてきたポー、ドイル、クリスティーらに対してエラリイ・クイーンは「ローマ帽子の謎」によるデビュー以来一貫して、「米国を描くミステリ」ということにこだわってきた。そして、そのクイーンにとっては米国=ニューヨークのことだった。クイーンの国名シリーズとして知られる初期作品やバーナビー・ロス名義の作品の中には米国での先駆者といえるヴァン・ダインのような都市部での大邸宅を舞台としたものもあるのだが、そのような閉ざされた空間ではなく、巨大デパートメント(百貨店)、大劇場、大病院、ロデオショーの会場、地下鉄の車両など誰もが出入りができる開放された公共空間を舞台とした作品を描いてきたのが、ひとつの特徴だった。そして、こうした公共空間こそが当時の最先端の資本主義を担っていたアメリカ合衆国の賜物でもあり、クイーンは新大陸に生まれた新たな風景を自らのミステリ小説に取り入れたのだ。
ところが再びニューヨークを描いた「九尾の猫」などいくつかの例外はあるにせよ、「ライツヴィルもの」に代表される後期作品においてクイーンの描く舞台は地方都市や郊外に移っていく。私が「災厄の町」を読んで感じたのはエラリー・クイーンのニューヨークがある意味アメリカを象徴する存在であったようにこのライツヴィルも具体的なライツヴィルという町というよりは象徴的な意味での米国の縮図として構築された存在ではないかということだ。
ライツヴィルには小規模な町ながらも独立した都市としての機能がすべて備わっている。銀行、新聞社(マスコミ)、警察、検事局、法廷、不動産会社、薬局、ホテル、百貨店、保険代理店、図書館、工場などは町の中心部にそろっている。ライツヴィルを米国そのものの縮図としたのはこういう意味だ。
そして、その舞台で物語はどこか神話的、寓話的な雰囲気で進行していく。ジョン・F・ライトは銀行の頭取でその支配者階級のひとり。いわばライツヴィルの王家の一員だ。そして、「災厄の町」はヒ素による毒殺事件を扱うミステリ小説だが、どこか寓話的な雰囲気に彩られていて、ギリシア神話やシェイクスピアの古典的な悲劇を彷彿とするような王家の悲劇になぞらえられる*3のだ。「災厄」という言葉で連想するのはギリシア悲劇の「オイディプス」だが、王家に起こる災厄の原因を王自らが探ることが大きな悲劇を引き起こすこの物語をミステリ小説の始祖とする説もあり、クイーンはそういうことも意識していたかもしれないとさえ想像させる。
登場人物のひとりであるロバータ・ロバーツという記者は事件をこのように描写する。
「現在、ライツヴィルという名のアメリカの小さな町で、現実とは思えぬロマンティックな悲劇が起こりつつある。悲劇の主人公をひとりの男とひとりの女、そして悪役を地域社会全体が演じている」。
「災厄の町」が発表されたのは1942年だから、70年も前の作品ではあるが、今読み直してみても極めて現代的な主題を扱っているともいえる。夫が妻を殺そうとして未遂、夫の姉が死んでしまったという事件。巻き込まれたライト家の人々は被害者の一族であり、加害者の家族でもあるという、で行われた裁判の中で、今でいう炎上的状態により、すべてのライツヴィルの人々を敵に回して、四面楚歌の状態に追い込まれていく。
しかももともとこの町の支配者階級であったこともあり、それぞれ利害が反し対立することになる検事や捜査官と判事、弁護士はもともとは全員がクローズドサークルの一員であったのが、裁判の進行に伴い厳しい感情的な葛藤を強いられるようになる。
「災厄の町」に続けて出された「フォックス家の殺人」でもエラリイ・クイーンは毒殺事件を扱っているのだが、どちらも毒をグラスに入れるチャンスがあるのは誰であったのかという推理で容疑者が限定される。こうした状況には実は大きな問題を引き起こす。それは犯人と目された人間が犯人ではないのだとすればその時に近くに居合わせた関係者の誰かが犯人なのであり、ひとりの無罪の証明は相対的に他の人物らの容疑を濃厚にし、場合によっては家族の間での疑心暗鬼を拡大することになりかねないからだ。
以前にこの作品を読んだ時には「災厄の町」は初期のクイーン作品と比べて、推理の部分に物足りなさを感じた。それはクイーンの推理が事件の渦中で華々しく提示されることはなく、すべてが終わった後で後日談の一部のように告げられる。探偵クイーンは悲劇の進行を止めることができない。法月綸太郎はこのことを後期クイーン問題として論じていくが、その論証は後日することにしたい。
*1:simokitazawa.hatenablog.com
*2:simokitazawa.hatenablog.com
*3:ジョン・F・ライトと彼の三人の娘(ローラ、ノーラ、パトリシア)の関係は具体的な物語の筋立てに共通点はないものの「リア王」のことを連想させるが、バーナビー・ロス名義の初期作品ではシェイクスピア俳優を探偵役に仕立てたクイーンであるから、これは意識的な配置だったはずだ。