オフィスマウンテン「ホールドミーおよしお」@こまばアゴラ劇場
コロナ禍で遠ざかっていたこともあり、オフィスマウンテンの舞台を見るのは2019年*1以来。山縣太一のオフィスマウンテンが掲げる「俳優原理主義」というのは自らも所属していた岡田利規によるチェルフィッチュの戯曲中心主義的な手法の批判からスタートしているため、チェルフィッチュとオフィスマウンテンではかなり異なる部分は当然あるが、一方では両者の対極に平田オリザによる現代口語演劇のようなものを対置するとすれば共通性を感じる部分も多い。
そのひとつが俳優と役の一対一の対応をはずしていることで、ことに今回の「ホールドミーおよしお」は6人の俳優が舞台上におり、何人かの人物を演じているわけだがひさしぶりに観劇してその手法になじんでいないせいか、最初のうちは、というか正直に言えば舞台の半ばあたりになって、進行している出来事(男たち何人かでフェスにいって、そこで後にウミウシという源氏名でキャバクラで働いている女と会ったなど)と人物関係の輪郭が徐々にはっきりしてくるまではいったいどこを見たらいいのかというを把握するのが相当以上に困難でどうしても散漫になって舞台に集中するのが難しかった。
そのことは逆に言えば後半になって全体の筋立てや設定が分かってからは横田僚平、矢野昌幸、神村恵ら中心となっているパフォーマー(俳優)の身体表現のディティールの面白さが事細かく感じることができるようになってきて、俄然面白く見ることができるようになったのだが、前半部分に負荷をかなり大きく感じたことも確かなのだ。
「ホールドミーおよしお」のセリフはほとんどがモノローグによって構成されていて、ひとりの俳優がセリフを発話している最中にはほかの俳優はセリフを発することはなく、おそらくそのセリフを聴いてそこから派生されてきたらしい身体所作をしている。ただ、この舞台に慣れない間はどうしても発話している俳優に注目しがちになるのだが、それだけではこの舞台はそれほど面白いとは感じにくいし、ほかの俳優の動きも気にはなるものの、どうしても舞台上のどこを見ればいいのかという視線が定まらない。しかも、最初の数人の時点ではそれぞれが別人と思われる人物の一人語りをしているため、作品自体の見え方も散漫でどういう作品かが分からず退屈しそうになってしまった。
例えてみるとこの舞台の印象は少し昔のいまよりもずっと処理能力が低いパソコンで、画像を見ていると最初はあいまいでぼんやりしていて、それが何であるのかが分からなかったのが次第に画像が明瞭になってくる時のような感覚に近い。普通に舞台を観劇するという立場から言えばもう少し分かりやすくてもかまわないのにと思わないでもないのにこの分からなさが観客が舞台上で起こることを「視る」という行為を引き起こしていることも確かで、その結果、リアリズムの表現のような具象性はなくても世界の多面性を丸ごと捉えるというようなことが引き起こされており、それはある意味、刺激的な体験だったのである。
*1:simokitazawa.hatenablog.com