演劇人コンクールでの優秀演出家賞 谷崎潤一郎の怪作上演 劇団なかゆび「お國と五平」@こまばアゴラ劇場
劇団なかゆび「お國と五平」@こまばアゴラ劇場を観劇。演劇人コンクールでの優秀演出家賞受賞作品である。演劇作品としては突っ込みどころ満載なのだが、いろんな意味で面白い公演であった。京都の若手劇団のようだが、東京ではちょっと出てきにくいようなタイプの作品で、この作品のみを見た現段階で全面的な賞賛はしかねるものの、ここから今後どのようなものが生まれてくるかということについては期待を感じた。
「突っ込みどころ満載」と書いた要因の大半は谷崎潤一郎の戯曲にあるかもしれない。最近でも歌舞伎などによる上演例はあるとはいえ、若手の劇団が自ら選ぶことを考えにくい戯曲でなぜこの作品なのかと不思議に思ったが、先述の演劇コンクールで主催側が指定した課題戯曲のなかにあったとあったと知り、
そういうことだったのかと一応納得した。
とはいえ、文豪、谷崎潤一郎の作品とはいえ、「お國と五平」はお話としてかなりおかしい。「時代的に現代人が納得しかねるところが多々あるが、時代的に日本に西洋から近代劇が導入される前の作品だから」とアフタートークで演出の神田真直は説明した。確かに歌舞伎などには現代の感覚からすれば違和感を抱かざるをえないようなエピソードを含んだ作品は散見されるのだが、この「お國と五平」にはちょっとそれだけでは説明できないような歪みがあるように感じたのだ。
ストーリーの骨幹は仇敵・池田友之丞に夫を殺されたお國が従者の五平とともに仇討ちの旅に出て、4年もの歳月をついやしてついには念願の仇討ちを果たすという歌舞伎にもよくあるような仇討ちの物語なのだが、討たれる側の友之丞の設定がかなりおかしい。そもそも仇討ちの標的にされた人間だから、討とうとした側から逃げさるのが当たり前なのだが、これが逆に男としてお國に執着するあまりに仇討ちに出た主従にストーカーのように付きまとい、ある時は虚無僧に変装し、主従が泊っている宿のすぐ外で、尺八を吹いていたというのである。
この異常な執着は谷崎が「春琴抄」や「痴人の愛」などの小説で描いてきた偏執狂的な愛情と相通じるところがないではないが、虚無僧に変装している場面などは想像するだけでドリフのコントの場面のようなところもあり、正直言って思わず笑ってしまう。作者である谷崎がそういう意図で書いたとも思えないのでどうしても「そんなわけないやろ」と突っ込みを入れたくなるのだ。
一方、劇団なかゆびの神田真直の演出はそういう笑ってしまわざるえないような戯曲とは少し距離をとって、仮面劇として上演されている。これは演出的に面白い試みだとは思うが、演技には若干の疑問点もある。仮面劇ということもあり、能楽や狂言のような日本の古典演劇を連想させるところがあり、お國にセリフ回しにもそうした空気感があるが、それは最近の木ノ下歌舞伎がそうであるような「語りの演劇」にはなりきっていない不安定さを感じたのだ。表情の伝わらない仮面劇として成立させるためには例えばSPACや山の手事情社のような訓練を経ての鍛錬が必要だが、そもそも作り手側がそういうものを求めているのかどうかが分からないところが不安定さを感じる要員になっている気がするのだ。