【夢小説 015】 夢伍位「気分屋ロリヰタ そらを飛ぶ(3)」
浅見 杳太郎
それ以降、僕は彼女と親しくなった。僕は、彼女よりも十歳近く歳上だと思うが、そんな歳の差を気にするでもなく、彼女は、自由の利く時間を見つけては、僕の傍に来て、屈託なく話をしてくれるようになった。
十年!
成長期を遠い昔話のように思い出す僕と、今、まさにその時期を生きている彼女。その歳の差の、十年。成長のために細胞を分裂させている彼女と、個体を維持するためだけに細胞を分裂させているに過ぎない僕。僕は、船底で島に着く時刻を腑抜けのように待っている団員らと、何も変わらない。彼らと同じで、ゆるやかに死んでいっている。そんな僕らにとって、三十歳も四十歳も五十歳も、大した意味はない。細胞が新しく作り変えられる度に、明らかに、駄目になって再構成される僕らにとっての十年とは、単に死の行軍を歩んで来た苦役の期間に過ぎないのだから。
などとは、卑屈に過ぎるだろうか。
実際には、この少女だって、大学生くらいの歳だとするのならば、生物的な最も目立った成長期はすでに通り過ぎて来ている訳で、そういう点では彼女もまた、僕らと同じだと云ってしまえなくもない。しかし、それでも猶、やはり明確に違うのだと僕は云いたい。
何と云われようと、僕らとこの少女の過ごす時の概念は違うのだ。だから、価値も違う。彼女は、肉体も然ることながら、精神が快活で、時と共に、上へ上へと枝葉を放恣に茂らせている。そんなふうに見える。成長への意志力とか、そんな力みは微塵もない。彼女を見ていると、真綿のような、ぽわりとした柔らかい丸みを感じさせる広がり、そんなものを、漠然と思い描いてしまう。太陽のある方へ、融通無碍、素直にすくすくと枝葉を伸ばしているように見える。
では僕は? 僕は、ここ数年で、少しでも枝葉を伸ばしたろうか。
疑わしい。だからこそ、僕は彼女との間に横たわる十年の年月に、険しい懸崖を見てしまう。大きな溝を感じてしまう。そして、なぜ、そんなことを殊更に意識するかと云うと、どうやら、僕は彼女を好きになってしまったようなのだ。
あの島での演奏後の宴会や、本州に戻ってからの毎夜の晩餐の折にも、彼女と話をする機会があった。
特に島は良かった。島の宿舎から歩いて直ぐの所に船着場があった。疎らに粗末な漁船が停泊しているばかりで、とても静かだった。団の皆が、宿舎の広間で常の如く酔いを発している最中に、僕は、ふらりと夜風に当たりに外に出掛けた。僕も随分酒を飲んでいた。酔っていて事の経緯は余り覚えていないが、彼女も一緒に連れ立って、島の夜道を歩いていた。酔いに任せて、大胆にも僕が誘い出したのかも知れない。あるいは、彼女の方から、例の人懐っこさで、付いて来たのかも知れない。
とにかく、僕らは、海風が松の枝を揺らす、さわさわという響きを聞くともなく聞きながら、二人で肩を並べて歩いていた。船だまりを横目に見て、岬の突端に腰を掛けた。混凝土の冷たさが、ひやりと心地良かった。宴会場から漏れ出す人工的な照明と、月と星の仄明かりばかりが、世界の光の総てであるかのように感じた。が、そう感じたのはほんの一瞬で、僕は世界の光がそれだけである筈がないことくらい、ちゃんと知っていた。僕は、「君だけを愛している」なんて不正確なことは、今まで口にしたことがない。また、「悪いのは全部お前だ」などと人を詰ったこともない。全肯定、全否定、もしくは極端な限定などを乗っけた言葉を、疑いもなく振り回せる感性を、僕は疑う。と云うより、嫌う。それらの言葉は、感情に流された恍惚状態で吐き出される類のもの、あるいは、嘘と分かっていて確信犯的に使う類のもので、つまりは正しい筈がない。そんなもの、酔っ払いの呂律の回らない戯言と同じなのだ。
だから、酔っ払っていたあの時の僕には、こう云う資格があった。
僕は、君と一緒に、岬の突端に座っていられて幸せです。宿舎から漏れ出す照明と、月と星の仄明かりばかりが、全世界の光の総てで、それは僕たち二人のためだけに輝きを放っているのです。僕は、君だけが好きです。
ご大層な理性溢れる自省も一瞬で忘れ去られ、僕はその時、確かに酔いどれの感動屋だった。しかし僕は、それ以上に臆病者だった。云う資格はあっても、残念ながら、云う度胸はなかった。
彼女が白く未成熟な脚をぶらぶらさせている下には、多くのテトラポッドが曖昧な輪郭で佇み、大人しく黒い波に打たれていた。宿舎からの喧騒は、夜の闇に濾されて、僕らの座っている所では、波の音とささやかな松籟の方が、ずっと優れて聞こえていた。
岬の先っぽに座り、僕らは何を話したのだろう。彼女の小さな横顔が、周囲の暗色から淡く浮かんでいたことだけは覚えている。僕はその時、彼女の小振りな手を握ろうとしたのかも知れない。「あっ」と云う声が聞こえたような気がした。そして、次の瞬間、彼女は腰を浮かせ、海へ飛び降りてしまった。今度は、僕の方が「あっ」と声を出した。出したと思う。驚いたのだ。
しかし、彼女は宙に浮いていた。手をはたはたと左右に振りながら、空中でバランスを取っていた。そうして、愛嬌のある笑窪を湛えて、どう、と云わんばかりに、得意そうに笑いかけてきた。どうもいけない、僕は酔っている。彼女はワンピースの裾を大きく蹴り上げ、ひょいと大股で空中を歩く。ぺたんとサンダルの音がする。ああ、テトラポッドか、とそこで漸く気が付いた。
やっぱりいけなかった。僕は酔っていた。
「ほら、見て」
四足の混凝土の塊の上を、ふわりふわりと跳びはねて廻る、彼女の無邪気な声を聞いて、酒が大いに作用していた僕は、
「うん」
とだけ静かに応えて、少し笑った。僕が真似したら、きっと海に落っこちるだろうな、という苦笑も半分含めて。
その時、ぷぱぁーという調子外れなラッパの遠吠えが宿舎の方から聞こえてきた。また、Sの奴だなと思った。そうして、顔を見合わせ、二人して笑った。
彼女は、どの辺りを歩いているかな、と思った。
僕たちは今、別々に歩いている。あの島の夜以来、親しく話すようになったとはいえ、常に隣り合って歩くというのも、周りの目が煩いものだし、果たして、僕が思っている程、彼女も僕のことを思ってくれているのか、もうひとつ自信がなかったのだ。だから、僕は今、こうして延々と伸びる下りの悪路を、滑らないように足裏に力を込めながら、一人で下っていた。そして、そのところを、ファゴット男に絡まれていた。
「それでさ、半分持ってくれるかな」
「え?」
意識の大半を、あの少女の軽やかな肢体に割いていた僕は、彼の云っていることが、俄かには飲み込めなかった。僕の理解を置き去りにして、彼は、自分の持っている赤茶色の愛器を、ジョイント部分で器用に取り外し、筒の下の方の部位を僕に差し出してきた。
「はい、じゃあこれ、よろしくね」
「これって、何さ」
「これは、足部菅、ダブルジョイントだよ」
「いや、そういうことを聞いてるんじゃなくて、何でおれが持たなきゃならないのさってこと」
彼は、なぜ自分の申し出が快諾されなかったのか、全く見当も付かないといったふうに、目を丸くして云った。
「だって、それはさ、当然なことじゃないかなと思うんだよね、僕としては。きみは、何も持ってなくて身軽だろうし、それにさ、まあ、何より、あれだよね、あれ……」
彼は、口の端を吊り上げて、含みのある笑みを浮かべた。後に続く言葉は、喉の奥で空転するばかりで、いつまで待っても彼の口から吐かれはしなかった。ワインを舌で転がすみたいに、僕の罪状を玩んでいるようで、僕は、じれた。勿体振って、からかっていやがる。僕が、あの少女に、何か後ろ暗いことをしたとでも云いたいのか。
ファゴット男は、口元を歪ませながら、飽くことなく、じとりと僕を見詰めている。告発者の優越を、その眸に湛えている。そして僕は、結局、彼の差し出す、分解された赤茶色の筒を持たされてしまった。彼には、僕が、自分の罪を認め、観念したように映ったことだろう。そして実際のところ、確かに僕は、あんな歳若い少女に恋をしたことを、後ろ暗く思っているのかも知れなかった。
僕は、吊り革もない裸の筒を、どう持ったらいいか途方に暮れながら、銀色に光るキイを壊さないようにと気を遣いつつ、怖々と、仔猫を抱きかかえるみたいに両の腕でそれを包んだ。他人の楽器は、嫌いだ。
「あ、そうそう。くれぐれも底をぶつけないでね。U字菅が凹むと音に影響するからさ」
何を云っているのか解らないが、そんなに大事なものならば、他人に預けなければいいのだ。このダブルジョイントと説明された部位には、二つ穴が開いていて、だからダブルなのだろうが、二つ穴が開いているということは、取りも直さず、その穴から二つの筒が接続されていたということに他ならない。そこへ、そのジョイント部を取り外して僕に手渡したものだから、ファゴットはてんでバラバラ、分解されてしまい、彼も太い筒と細い筒を二刀流のように持つ羽目に陥っていて、余計、運びにくくなったのではなかろうか。
僕に嫌がらせをするために、わざわざ余計な労力を割くとは、見上げた根性だ。僕は、最早これ以上、抗弁する気も起きなくて、
「うん、気を付けるよ」
とだけ云って、U字菅とやらがある底の方が上になるように、天地逆転、持ち直してやった。すると下にした二つの穴から、不意に、ぬらりと生暖かい液体が垂れて来たではないか。それは僕が反射的に手を引くよりも早く、僕の右の手の平にじわりと染み渡っていった。厭な予感がして嗅いでみると、饐えた臭いがした。
唾だ! うえっ。
僕は、びゅんびゅん、手首を上下左右滅茶苦茶にブン回して、滴を地面に振り落とした。ファゴット男は、してやったり、さらに両頬を緩ませて、勇ましい二刀流の格好のまま、ぴゅうと坂道を駆け下りて行ってしまった。
つづく。