やりたいことがわかりません…前編
私はやりたいことがわかりません。
かつてはあったのに、今はわからなくなってしまいました。いかにして私がやりたいことがわからなくなったのか。なぜ今、介護の仕事をしているのか。
長くなるので、前・後半に分かれます。
まずはやりたいことがあった時代から…
小学生の頃は、藤子不二雄先生に憧れてKさんと一緒に「2人で1人のマンガ家」になろうと藤子先生のマネをして手作りのマンガ雑誌「小4マガジン」「小5マガジン」を作ってクラスに配っていたりしましたが、Kさんが引っ越してしまったことでマンガを描かなくなってしまいました。
中学校では校内暴力の嵐が吹き荒れていました。私は学校で一番体が大きかったHさんと同盟関係を結び、不良(当時は非行少年と呼ばれていました)たちから身を守りました。
Hさんとは部活のない日に2人で新宿に映画を見に行っていました。中2の時、S.スピルバーグの「未知との遭遇」に2人とも衝撃を受け、私は8ミリカメラ、Hさんは8ミリ映写機を買ってもらい中3の夏休みに2人で30分くらいの映画を作ります。
高2の時に、私が8ミリ映画を作っているということが、クラスに広まり学校で上映会をすることになりました。
これが私の人生を動かしました。Tさんが大絶賛してくれたのです。
Tさんはマンガを描き映画も作り、言語化能力も非常に高く文章もウィットに富んでいて、当時の私からは才能の塊のように思っていた人です。
Tさんがあまりに絶賛するので私には急に友達が増えました。Tさんが私をイジリたおしてくれたおかげで「映画を作るちょっと変わった人」というポジションで高2の冬になって初めて高校での自分の居場所ができました。
Tさんとは漫画や映画や社会について様々なことをおしゃべりしました。「自我」に目覚めるとこんなにおしゃべりは楽しくなるものなのかと自分で驚くほどにおしゃべりをしました。
そんなある日、Tさんは私に一枚のCD…ではなく一本のカセットテープを渡しました。「すごい奴が現れた」と。
それは尾崎豊の1stアルバム「街の風景」でした。
すぐに聞いてみたのですが、私にはTさんの受けた衝撃がわからず「気持ちよさそうに歌う人だね」というトンチンカンな感想を言って、Tさんを大きく落胆させました(今、全てを振り返って考えてみると、あながち間違った感想ではなかったと思ってますケド)。
その後、懇々とTさんから「尾崎豊」がこの時代にデビューした意味・凄さについて啓蒙を受けました。その啓蒙により私も「尾崎豊」にハマります。おそらくTさんと出会っていなかったら、おそらく「尾崎豊」は私の人生からはスルーされ、私の人生は全く違ったものになったことでしょう。
しかし私はTさんと出会い「尾崎豊」から強い影響を受けてしまったのです。高3の冬に出た「卒業」という12インチシングルを聴いた時には、完全に世の中と敵対する精神的なポジションになって共鳴していました。卒業式の日には放送室ジャックをしかねないイキオイで感化されていました。
” 行儀良く真面目なんてできやしなかった
夜の校舎、窓ガラス壊して回った
逆らい続け あがき続けた
早く自由になりたかった ”
尾崎豊「卒業」より
私の中学時代はまさに新聞でも取り上げられるほどの「校内暴力」の時代で、確かに校舎の窓ガラスがガンガン割られていました。授業中に校庭を卒業生がバイクの二人乗りで走り回ってパラリラパラリラいわせてました。平日の授業中です。私は行儀良く真面目でしたので、窓ガラスを割る側ではなく、その風景にビビってる側でしたが「尾崎豊」の歌が、自分たちの世代の気持ち・閉塞感を叫んでいるという強い同時代感はありました。
Tさんも行儀良く真面目でしたが、尾崎豊のような視点で世の中に激しい怒りをぶちまけていました。そして「強い怒り」を表に出さない私を、その後も長きにわたり糾弾し続けました。
私とTさんは1年間のなんともいえない浪人生活を経て別々の大学に進学します。当時の大学は夏はテニス、冬はスキーというキャンパスライフの時代でした。「尾崎豊」的世界観から見たら唾棄すべき、まさに怒りの対象になっていたライフスタイルなので、私は大学生活に溶け込めるはずもなく、授業にはほとんど出ずに1本のシナリオを書き上げます。そして一年半の時間をかけて90分の8ミリ映画を完成させました。Tさんが上映会を仕切ってくれて下北沢のカフェバーを貸切で100名近い集客に成功しました(もちろん友人、知人がほとんどですが)。この映画を通うじて自分の大学でも友人ができたので、大学3年からはちゃんと(時々)授業に出るようになりました。
そしてなんとか就職の時期を迎えます。
しかし私の「尾崎豊」的世界観は、大学で出会った友人たちの影響で観始めたヴィム・ヴェンダース作品やジム・ジャームッシュ作品といったミニシアター系の映画の影響により、より退廃的な方向にこじれ、大企業への就職なんてあり得ない精神構造になります。卒業後は当然のようにフリーターになり、色々なツテを模索し、なんとか映画の現場に潜り込みました。しかし当時は日本の映画界は最も低迷していた時期で、なかなか映画の仕事は繋がらずCMとTV番組を制作する小さなプロダクションで働くことになりました。
バブルの全盛期です。ADの私の給料は一人暮らしを維持するためには「風呂無し四畳半」に住まねばならぬほどの安月給でしたが、CMやTV番組の予算自体は潤沢でした。映画とは比較にならない贅沢な撮影やロケが行われていました。働いている人たちもバブルの時代ですからイケイケです。根暗で人見知りな私が溶け込めるはずもなく3年勤めましたが、結局、映像を仕事にすることは諦めます。
傷心の私は沢木耕太郎の「深夜特急」に感化され、バックパッカーとしてタイのバンコクからマレー半島を南下しスマトラ島に渡り、赤道に引かれているという赤い線を見に行くという目的の旅をしました。
このひとり旅を通じて、旅というものがいかに贅沢な行為なのか、旅するうちに、脳内から快楽物質がドバドバ分泌されていくのがわかり、トリップ感というのはここからきた言葉なのではないかと思うほどの多幸感を感じました。そしてもっともっと旅をしたいとも思うようになりました。
旅先でプロバックパッカーとも言うべき先輩方(当時30代から40代くらい)とも知り合いました。その人たちはとにかく「貧乏旅行」にこだわっていてできるだけお金を節約して長期間かけて世界中を自分の力で歩いていました。お金が尽きると日本に帰国してアルバイトでお金を稼ぎ再び旅を続けて世界中を旅して回ってるということでした。当時の日本はそういうことが簡単にできてしまうほど円が強かったのです。
旅の帰り道、マレー半島を北上する鉄道に再び乗ろうとしていた時に、1人の日本のオジサンと出会います(多分40代か50代)。サングラスをかけて髪がちょっと長くていい匂いがしていました。
妻さんと喧嘩して1人になってしまったが「独りは寂しいのでバンコクまででいいので一緒に付き合ってよ」と軽いノリで言われます。名前を聞かれたので名前を答えると「おー奇遇だね、同じ名前だよ!」と軽いノリで言われ、私は自分の名前を「さん付け」で呼ばれ、自分と同じ名前を「さん付け」で呼び、お互いに同じ名前を呼び合いながら一緒にマレー半島縦断鉄道に乗りバンコクまで共に移動しました。バンコクの「マレーシアホテル」に別々の部屋をとって泊まりました。私にとっては旅の中で最も高級な宿泊、オジサンにとっては旅の中で最安な宿泊だったろうと思います。最後の晩に一緒に行ったパッポン通りというバンコク最大の繁華街で酔っ払ってハメを外してしまった私を「キミは最低だ」と罵しりながら、先にホテルに帰っていきました。翌日の朝、「昨日はエラそうなこと言ってスミマセン」というメモ書きが私の部屋の扉の下に入れてありました。その人とはそれが最後です(今、思い出したらなぜか涙が出そうになってしまった)。不思議な思い出です。
私は、自分の年齢に応じて旅の仕方、泊まる場所を変えていきたいと感じました。そのために帰国後は、ずっとこだわっていた漫画や映画というような「物語の作り手」になるという夢は諦めて「普通の人」と同じように就職しようと思ったのです。
「普通の人」と同じように就職しようという姿勢は、私を最初に採用してくれた部長から「お前は腰掛けOLか」と最初の叱られポイントになりました。