島田つきが『愛と幻想のファシズム』のゼロについて熱く語る日記
小説の感想です。
1987年出版(日本)
著作、村上龍
※ネタバレあり
※イメージ画(小説に挿絵はなく完全なる筆者のイメージです)
~~この文章は、数年前に別のブログに書いたものに新たに加筆修正したものです。~~
以前に載せた『愛と幻想のファシズム』は、読み終わってすぐ書いた感想です。
そして今回の感想は、その後数年(2013年くらい)してから書いたものに加筆修正したものです。
そして現在(2016年)は、それからさらに数年経っています。
いわば、島田つきの過去の遺物のようなものです。同じ作品の感想なのに時期によって解釈や筆者の考え方がどんどん変わっていますが、よかったら読んでください。
~~2013年9月の感想~~
中二病体育会系男子トウジとヘンタイ芸術家ゼロが世界征服を目指す青春物語。
~キャラクター~
鈴原冬二(トウジ):狩猟が好き過ぎて組織名を「狩猟社」にするくらいの狩猟大好きガチムチ体育会系男。
相田剣介(ゼロ):酒に溺れたり女に逃げたりリストカットしたりするメンヘラちゃん。趣味・映画を作ること。
フルーツ(通称):ゼロの彼女。小悪魔美人。イメージ的には峰不二子とメーテルをひっつけた感じ。
最初はゼロとトウジ二人で作った組織だが、のし上がるにつれ仲間が増えていく。
そのうちコミュ障のゼロは孤立し病んでいく。
仲間たち「ゼロうざくねー?」「つかゼロいらない」「トウジさんゼロやっちまいましょうよ」
トウジもゼロの扱いには困っていたが、もともと友達だから判断に踏み切れない。
病んだゼロに困り果てたゼロの彼女(フルーツ)から相談を受けるうち、親しくなり三角関係に……。
考えあぐねたトウジはゼロに宣伝部長を任せる。ゼロはコミュ障だが得意の創作活動を生かすことで無事、居場所をゲットする。
組織も順調にどんどん大きくなってくる。
しかしトウジは見違えるようになったゼロに軽く嫉妬。酔った勢いで「死ね」と言ってしまう。
ゼロはトウジにビデオレター(遺作)を残し自殺。
そこにはキラキラした魚が映っていた。その魚は、昔二人で釣りに行った時、トウジがドヤ顔で釣って見せたキングサーモンだった。ゼロが釣ることのできなかったキングサーモンだ。
ゼロがいなくなったことでフルーツもトウジの前から去る。
組織は絶好調、これから日本いや世界征服するぜ!! というところで物語は終わるが、なぜか暗澹とした未来しか見えない。
ゼロもフルーツもいなくなったら、精神的にトウジはもう駄目だと思います。
もともとトウジの才能を見抜いて「お前ならやれる」と背中を押したのはゼロですからね。
状況としては順調なのに絶望しか感じない終わりというのは、何とも文学的。
読んでいる時「まるで学生の部活のノリだな幼いな」と思っていましたが、トウジもゼロもまだ二十代中盤くらいなんですよね。そりゃ、幼いわ……。
自分がこの年齢になったから思いますが、20代って全然大人じゃない。というか、年をとったからって大人にはならないんだなって最近わかるようになりました。
最初読んだときは、トウジって冷徹・ゼロ可哀想……だったが、よく考えるとトウジってそんな悪い奴じゃないし、ゼロより可哀想かもしれません。
スキャンダルは起こすわ役に立たないわで組織的にはお荷物になっていたゼロに、苦心して仕事を用意してやったりするし。
しかもこのスキャンダルの内容ってのが、「SM風俗に行ったのを週刊誌にすっぱぬかれる」という恥ずかしすぎるもの。「組織のイメージを地に落とした」とメンバー激おこプンプン丸で、最年少の山岸からは「あのヘンタイ」と呼ばれる始末(山岸、可愛いな)。「あいつをとっとと粛清しろ(殺せ)」と詰められるトウジ。
でも、トウジはゼロを殺さない。殺せない。友達だから。
これまで合理的に邪魔になる人間は粛清してきたのに……トウジはんも人間なんやなとつくづく思います。
何とかゼロの立場を守って、その結果ゼロが頭角を出してきて山岸からも「相田さん」と呼ばれるまでになって。多少、嫉妬しても罰は当たらないでしょう。
そんなつもりはなかったのに、ゼロが豆腐メンタルだったから自殺されてしまうし。親友を自殺に追い込んだという事実は、ずっと心に影を落とす。
好きな女は結局、ゼロを介しての関係以外のものではなく、ゼロが死んだらいなくなってしまうし。
トウジにゼロに「死ね」というようそそのかしたのはフルーツだから、彼女もなかなかの悪女っぷり。ゼロが好きだから変わった彼が受け入れられなかったのでしょうかね。
トウジはフルーツを「幻の牝鹿」と呼び神格化している節があったけど、彼女は実際は、ちょっとずるくて、ちょっと美人の、ただの女だったのだと思います。
あれほど「強さ」の象徴的なキャラクターのトウジなのに、フルーツにはいいようにされているのが何とも言えません。
いろんな人間を動かすカリスマのトウジが、最後まで思い通りにできなかったのがゼロとフルーツという非力な二人というね。このカップル強すぎる。
ゼロのダメ人間具合に、トウジもフルーツも振り回され続けました。
しかし、カリスマのトウジとイイ女フルーツを惹きつけるだけの魅力が、ゼロには何かあったのでしょう。
カリスマリア充トウジは、客観的にはゼロに勝ち続けたが、主観的には負けていた。
だから、つい「死ね」なんて言ってしまった。豆腐メンタルゼロにとっては、親友から言われた「死ね」はきつかったでしょうね。
肉食男子・トウジが女々しさを見せる、よい台詞(直接「死ね」ではなかった気がするが、具体的な台詞は忘れた)。
ゼロを殺すにゃ刃物はいらぬ、トウジが死ねと言えばいい。
なんかもう夏目漱石の『こころ』の世界だな←
おまけに最後の最後、フルーツが選ぶのはゼロなんだから。
トウジとフルーツが寄りかかり合ってしまったのは、自分のことしか愛せないゼロへの、二人が抱える虚しさの結果なのかなと思っています。自分しか愛せないゼロが、自分以外で一番大事にしている相手。それがフルーツから見ればトウジで、トウジから見ればフルーツだった。だから二人はゼロへの執着からお互い絆されたのかなと思います。
同じ男を愛した者だからみたいな(ウホッ)。まあそれだけではない部分も多そうですが。
最初、トウジは強い男だと思っていたが、本当はゼロよりも弱い男だったのだと思う。
いろいろ書いたけど、ゼロはいいやつだと思うんですよ。
絶対、興味ないはずなのに、トウジの狩りに付き合って冬山を登ったりしているし。それでついてこれないゼロに対して、トウジは内心でドヤっているのが、面白い。
名前のせいで、トウジとゼロはエヴァンゲリオンのあの二人でしか脳内再生されないよ(笑)。
だからというわけではないですが、エヴァンゲリオンの相田ケンスケも好きなキャラクター。
~キャラクターの外見イメージ~
鈴原→エヴァンゲリオンの鈴原トウジが黒いコートを着て、猟銃を肩に担いでいる。
ゼロ→エヴァンゲリオンの相田ケンスケがどこか愁いを帯びた瞳でニヒルに笑ってる。
フルーツ→初期の峰不二子がメーテルみたいな表情をしてる。
洞木→ワンピースの百計のクロというか小林よし○りというか。
千屋→デスノートのジェバンニ
飛駒→ポケモンの「りかけいのおとこ」
~~後から加筆した部分(2013年9月)~~
もう一度読み返してみないとわからないが、ゼロはもともと自殺願望者だったから、本当はずっと死にたかったのかもな。
フルーツがゼロは死ぬべきだと言ったのも、トウジがゼロに死ねといったのも、死ぬことがゼロの幸せだということを感じ取ったからかもしれん。
あまりにも才能を発揮し輝きだしたゼロに、フルーツは何か限界を感じたのでは……。
二人ともゼロが好きだったから、ゼロを死なせてあげたともとれる。
そうだとしたらフルーツもトウジもすごい覚悟であり、ゼロはいい理解者をもっていたといえる。
考えてみれば、トウジはいつだってゼロのやりたいようにやらせてきたような気がする。
とすれば、「自由の尊重」を地でいくトウジは尊敬に値するな。
口で言うのはたやすいが、実行するのは簡単ではない。相手に執着すればするほど、道を正してやりたくなる。だがそれは執着する側の傲慢で、本当は人は自由に生き自由に失敗し自由に死ぬ権利があるのだ(他人に危害を加えていかんが)。
初見時、トウジは好きではなかったが、自分の目指したい人間はトウジなのかもしれない。
しかし読んだのがもうかなり昔だから、脳内で「ぼくのかんがえたさいきょうの愛と幻想のファシズム」になってしまっているかもしれんw
~~さらに加筆した部分(数年前)~~
「モーツァルトはいいわよ、天才なんだから、ゼロには才能がないもの、才能のない人は甘えてはだめよ、才能のない人には自分を愛する資格なんか、ないわよ、そう思わない?」(フルーツ)
うおおおお、自分のようなくすぶっているクリエイターの心をズタズタにしていくうううう!! いいじゃないかよ! 才能なくったって甘えたって!!
(というか才能のあるなしでやっていいことと悪いことが変わってなるものか)
とかなんとかって思うけども、小難しいことを語っていてもフルーツが言いたいことってもっと単純なところにあるんだろうなと思います。
人間というのは言外の部分にこそ本当に言いたいことがあったりしますからね。
フルーツにとっては、ゼロには才能があっては「ならなかった」。
だから、最終的に「彼は死ぬべきなのよ」につながった。
……のではないかと。
なんでそうなるかについては、野暮だから書きませんが。
まあ、いろいろな理由をひっくるめて「あんなの、ゼロじゃないもん! もうゼロじゃない「何か」だもん!」って感じだったのかなと思います。
最後に、印象的な台詞を引用。
「俺は、床に坐るゼロを軽蔑した。オレはだめな人間だ、そしてオレはそのことを自分でわかっている、だからオレを消してくれ、そう言っている人間を軽蔑するのは正当なことだ。差別ではない、礼儀だ。」(トウジ)
軽蔑してくれという人間を軽蔑しきるってなかなかできない。トウジはトウジで筋が通っている、というかゼロのことよくわかっているんだなって思います。
でもこんなこと言いつつ、お前の力が必要だと、生きる道を示してあげるんだからトウジさんったらツンデレ。俺がヒトラー、お前がゲッベルス。共に第三帝国を築こう。
「ゼロはね、異常なくらい優しいの、自分のために誰か他人が不幸になったりするのがたまらなくいやなのよ」(フルーツ)
異常なくらい優しいの、というのは、ゼロというキャラクターを象徴する表現だと思います。
モーツァルトが大切なのは、メイドではなくメイドの目に映るモーツァルト自身。
「やりきれないと思わない?」
~~ゼロの死について加筆(2016年現在)~~
小説のテーマ的に見ると「トウジも含めてシステムの傀儡になりつつある狩猟社。自身もシステムの一部になりつつあることに耐えられずだんだんと狂っていくゼロ。それをフルーツはいち早く(ゼロ自身よりも早く)察した。だから『ゼロは死ぬべき(ゼロがゼロでなくなる前に)』」という解釈が一番近い気がします。で、トウジは、ゼロの彼女のフルーツがそういうなら、そうなんだろうと。
いやでも読んだの相当昔だし、若かった自分に読解力があったとも思えないので、的外れかもしれませんが。思い入れがありすぎて読み返したくないんや。それこそ、自分の中の「幻想の」この作品を愛しているんや。
・トウジ、ゼロに嫉妬しちゃった説
・トウジ&フルーツ、ゼロを楽にしてあげた説
・フルーツ、ゼロに絶望した説
・フルーツ、ゼロを楽にしてあげた説(二番とかぶる)
好きな説を選ぼう!
ゼロはトウジにちょっと下に見られてるのに、許してあげてるところが器広いなと思う。まあ「下から甘えるのが好き(ラク)」というのもあるんだろうけどw
しかし最後まで誰にも価値観が揺るがされない、見かけによらず、蛇っ……!
ゼロは、トウジのことも、フルーツのことも、好きだし大切ではあったのだと思います。
~2020年追記~
最後に残したビデオレター。狩猟社としてではなく、友人として過ごした思い出に関するものというのが、なんとも、なんとも胸に来る。
冬二に「死んだ方がいい」って言われたのは、ゼロ自身の言葉が引き金だけど、それは胸が締め付けられるから、今でも書き記したくない。
(2023年8月追記)
「弱者は殺す」という狩猟社の理念的にはゼロは粛清対象ですが、やっぱりどんなに”弱い”と言われても無邪気で優しくてロマンチストで人たらしなゼロはどうしようもなく魅力的なんですよね。
感想文を読み返してみると、ダメっぷりばかり書いていますが、上記の魅力が前提にあるから好きになったのでした。
と思って、改めて書き足しました。