短編幻想小説『ねじれの報酬』2
Ⅱ
「わしはな、いつでもニヤニヤ笑っている奴は信用しねーんだ」
じいさんは右手に持った紙カップを握りつぶしながら、こう叫んだ。どろっとしたゲル状の物体がねじれたコップの口から溢れ出て、じいさんの萎びた胸元にこぼれ落ちた。
「じいちゃん、こぼれてる」
「かまわん。こんなまずい似非ミルクセーキ、飲めるか。似て非なるわい」
「お薬なんだから、しょうがないでしょ。ミルクセーキ風味なのは優しさでしょうが」
「哀れみは受けん。バカ者どもが」
こぼれた薬をティッシュ・ペーパーで拭い、Mはつぶれた紙カップをじいさんの手から奪い取った。もう一度、看護師に薬をもらわなくてはならない。じいさんは病院のブラックリストの最重要危険人物で、既に何人ものスタッフがさじを投げている。
「今日は何も持ってきてないのか。こんなまずいものばっかり食ってたら、死んでも死に切れんわ」
「当分死なないって、お医者さんも苦笑いしてた。看護師さんたちも、早く退院してほしいって顔してるしね」「あいつらは毎日毎日くだらん噂話ばかりしておる。このままでは耳から脳みそが逃げ出すわ。このくそ足が動くなら、こっちからさっさと出て行きたいところだ。なあジャック・ロンドン」
この部屋で一番思慮深い顔をした大型の雑種犬が、ちらりとじいさんを見上げた。彼―つまりジャック・ロンドン―は、御歳12歳の老犬で、じいさんとは5年の付き合いだった。じいさんと出会うまでの7年は、廃棄工場の片隅や売れない役者たちの小劇場で雨露をしのぎ、幾多の人生の機微を見続けた。両親のことは全くもって記憶にない。いつどこで生を受け、乳を与えてもらったのか、そんなことはとうの昔に意味をなくしてしまった。孤児として、社会の底辺の一部として、彼は世界をさすらってきたのだ。若い頃は自らのルーツを求め、自分の容姿の特徴を元に、原産国巡りを試みたこともあった。だが所詮は雑種。どこに行こうと彼の心の奥は麻痺し、ますます孤独を深めるだけであった。「マイノリティ」ーーそんな単純な言葉では表わせない心の隙間風。「ここではないどこか」に対する未知の期待と希望は、年を重ねるごとに萎え続けた。そんな時、彼はじいさんと出会ったのである。
あれは革命未遂前夜の活気溢れる市街地でのことだった。揃いのファンキーなTシャツを着た10人ぐらいの老人達が、何事かをリズミカルに叫んでいた。若者の群れに混じった老人達が、誰に何を要求しているのか気になり、彼はその徒党の後方に忍び寄った。元来彼は人間に対し、親近感のようなものを感じていた。いや、同胞意識と呼んでも過言ではない。こんなことを言うと、彼の人生の孤独と矛盾すると思われるだろうが、そうではない。種族を超えた親しみほど、ややともすれば浮き雲の脆弱さを露呈するものはないのだから。
と突然、その徒党の中の一人が、得体の知れない動物の気配を察知したのか、身体に似合わぬ俊敏さで振り向いた。そしてそのTシャツのじいさんーーなにせ5年前からじいさんだったーーは、厳しい目つきで「おう兄弟、お前も今こそ声を上げる時じゃぞ」と怒鳴りつけた。そしてその日を境に、彼は「ジャック・ロンドン」という名と名付け親を手に入れたのだった。
「どうした。今日はあまり言い返してこないな。もっとガッツリ来いよ」とじいさんは、得意のファイティング・ポーズを決めて、孫娘を挑発している。
確かに彼女は教室にいるときからずっと、じいさんに今朝のことを告げようか思案に暮れていた。手土産のタルトを買うこともすっかり忘れていた程に、そのことを気に病んでいた。だがつけ加えるなら、単に助言が欲しかった訳ではない。じいさんならそんな与太話、一緒に笑い飛ばしてくれるような気がしたからだ。じいさんとジャックという日常の確かな存在と笑い合えば、今朝の出来事は単なる幻覚として消滅してしまうだろう。しかし、もしもあの出来事を言葉に出してしまったら、もしかしたらその時点であの怪しい2人は肉体を持ち始めるのではないか。現実的な力を得てしまうのではないか。馬鹿げた妄想とは分かっていても、そう考えるとMはどうしても彼らに話しをすることができなかった。
結局彼女は、「今日はちょっと忙しかったから、頭がまだボーっとしてるの。特に額のあたりがね。じいちゃん、明日はお母さんが来るから、なにかおいしいもの持ってきてもらうよ。お花もそろそろ換えなきゃね」と答えるだけにした。
それを聞いたじいさんは「花がなんだい」というしかめ顔で、ジャック・ロンドンの頭をぼんぼん叩いた。ジャックは乱暴な扱いをされることには慣れっこだったので、体をブルブルッと2,3回震わすと、興味なしの意思表示に大あくびをした。本当はジャックもじいさんも、新しい花の香りが大好きだったのだが、素直になるには己が脆弱すぎる気がしていたのだ。革命未遂者の悲しい性かもしれない。
「そういえばおまえ、もうじき確定試験日らしいな」とじいさんが訊ねた。
すると孫娘は得意げに「うん。再来月の初旬に。まあ私の場合は簡単な面接だけだけど。すでに十分な実績があるし、先に一覧表にして提出済み。補助金もちょこっともらえそうだし、使節特権も受けられそうなんだ」と言った。
「それは結構なこった。おまえは昔からそういうガキだ。ぬかりなしっ子だ」じいさんはジャック・ロンドンに警告するように、彼のしっぽをぐいぐい引っ張りながら言った。
「嫌な言い方するね。才能のおかげと言ってほしいよ。ねえジャック」彼女も負けじと、犬の額をなでた。
「それならわしのおかげだな。これは確実に隔世遺伝じゃ。わしの才能のエキスが濃縮して、おまえが今、ここにいることに感謝しろ」
「そんな無茶苦茶な・・・」
「いいか。面接で訳の分からんことを聞かれたら思い出せ。『いつ如何なる時も、真理と作為の位置をーー』」
「『ーー確かめろ』。それじゃ、そろそろ帰るね」
Mはじいさんの布団を整え、鞄を肩に掛けると、さよならを告げて病室から出て行った。扉の閉まる僅かな音を聞きながら、じいさんは優しくジャック・ロンドンのしっぽをなでつけていた。萎れかけた秋明菊の香りが、残された彼らを包み込み、絨毯の下の冷たいリノリウムの床にまで染みこんでいった。
〈続く〉