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エッセイ|旅の匂い

 この作品には、途中でロシアにまつわる記述と写真が出てきます。もしもご不快に感じる方がいらっしゃっいましたら、お読みにならないことをおすすめします。

 18歳のときに一人暮らしを始めて以来、ずっと「よそ」での生活が続いている。そのあいだ、数年から数十年の単位でいくつかの町に移り住んできた。

 引っ越しで新しい「よそ」に移るとき、計画を立て始める段階からもうすでに、「この町に行ったらこうしよう」「こういうライフスタイルに変えよう」と想像して楽しくなる。そして実際に暮らし始めると、かねてからの期待通りになったり、考えていた通りにはいかなかったりするのだが、なにせ新しい土地は新鮮で目新しい。旅しているのと同じ感じだ。

 ところがそんな旅人気分の生活も、単調な生活を続けているうちに、知らず何ということのない「日常」に変わっていくことがある。旅が、日常になっていく。

 はじめて一人暮らしをした京都がそうだった。何もない田舎で育ったものだから、引っ越す前はみやびな町に暮らすと思っただけでウキウキして気もそぞろ。じっさい学生のあいだは楽しいこと尽くしだったといっていい。それが、就職して生活がマンネリ化するうちに、トキメキは無くなっていた。
 いま暮らしている東京もそう。暮らし始める前は、どれほど楽しいことに溢れた街なのだろうと、ワクワクとしたものだ。たしかに最初の10年くらいは楽しいことばかりだった。でも、年齢を重ねたいまでは、辛いと感じることのほうが多くなっている。


 先日、しょっちゅう通る路地の途中で、とつぜんお菓子を焼く匂いに気がついた。
 (あぁいい匂い)と思うと、そこからほんの4~5歩行った先で、今度はお醤油の甘辛い匂い。それがまた数歩で天ぷらの匂いにかわり、一瞬だけ煙草が混じったと思ったら、誰かがシャンプーしている香りに。そして飲み屋の独特な匂いが漂ったところで、通りに出た。
 
 いつも通る路地でこんなに色んな匂いがしていたなんて。
 このとき、旅を自分の手にとり戻した気がした。
 もしかして旅って、「匂う」ことなのだろうかと思った。

***

 若いころによくしていた旅は、いわば「the 旅」とでもいうものだ。聖地巡礼もその中のひとつ。浅田次郎さんの『蒼穹の昴』や、それに続く清朝宮廷の小説『珍妃の井戸』にハマったときは、故宮博物院を一度では見きれずに、数年後にもう一度訪れた。(以前はマイレージを貯めやすい仕組みがあり、2度とも航空券無料で往復できたので、そういうことも可能だったのだ)

故宮博物院 珍妃の井戸(2005年撮影)
小さい。柄杓ぐらいしか使えそうにない。

 聖地巡礼の旅でもっとも強い思い入れのあったのはベルサイユ宮殿である。大人になったら絶対に行きたいと思っていた。
 50代女子にとって、池田理代子さんは別格の漫画家だ。とにかく画が華やかで綺麗。女の子の大好きなドレスがたくさん出てくる通称『ベルばら』の作者。外国のお姫さまの衣装と夢のような宮殿に、子供たちは(大人だって)うっとりとした。
 ただ、フランス革命あたりの記述が子供には難しくて、内容を理解して読んでいたかというと、そんなことはないんだけど。

30年前はもっぱら撮りっきりカメラ。
この上の農家風の家も
『ベルばら』に出てたの覚えてます?


 比喩的な意味だろうが、「池田理代子さんは革命家」であると書かれたエッセイかコラムを読んだことがある。
 ベルばら以外にも、革命にまつわる作品があった。わたしが知っているものでは、『オルフェウスの窓』というロシア革命を描いた作品がそう。物語はドイツのレーゲンスブルクという町から始まるのだが、やがて主人公は、ロシア革命の激動の渦にのまれていく。
 外伝も含めて10巻だから、長さは『ベルばら』と変わらない。30歳を過ぎて読んだもので、華やかな画の描写はいうまでもなく、壮大な舞台設定とサスペンス要素を含んだストーリー展開におののいた。大人が読むに値する、最高のコミックスといっていい。
 
 この作品に影響を受けてから、池田理代子さんには『女帝エカテリーナ』(3巻)もあると知ってそれも読んだ。わたしのロシアに行ってみたい熱はさらに高まり、ついにモスクワとサンクトペテルブルクを一人で旅することになったのである。15年前(2009年)のこと。

モスクワの公園で


 『オルフェウスの窓』では、主役級のキャラクターより、脇役に惹かれるところが多かった。とくに終わりのほうに出てくるユスーポフ侯。超絶ハンサム&頭脳明晰&生まれながらのリーダー気質&主人公を影で見守る愛情深さ。モデルとされる実在の人物があり、お屋敷がサンクトペテルブルクで公開になっているという。これを見逃すわけにはいかない。

 そこは内装がダークな色合いの、品のいいお屋敷で、調度品も重厚な印象のものでしつらえられていた。漫画の中でみるような宮廷めいた豪奢さはなかったが、いかにもユスーポフ侯の好みを反映した(というか、池田理代子さんがユスーポス侯を生み出す際の参考にされた?)感じの、住人の趣味の良さが滲み出るような邸宅なのである。 

 理由は思い出せないけれど、このお屋敷の写真を撮っていなかった。撮影禁止だったのか、あるいは集中し過ぎていたのかも…

ネヴァ川の向こうに堂々
エルミタージュ
エルミタージュ内部


サンクトペテルブルクは水の都


ピョートル大帝の夏の宮殿
(ここも、めっちゃ歩きます)
同上

***

 いまは仕事のことがあったり、円安ということもあるしで、1週間の有休をとって海外で「the 旅」するのには無理がある。でも「匂う旅」をするだけなら話はわりとカンタンだ。

 若いころにいちど住み慣れてしまった京都だって、何十年も経ったいまなら新鮮な気持ちで旅できる。考えることをストップし、無心に五感を集中させる。京都だろうと、東京だろうと、近隣の路地だろうと、オフィスだろうと。

 何かを焼く香ばしい匂い。

 コーヒーの香り。

 おこうの匂い。

 魚介を売るお店の匂い。

 雨が降るまえの木の匂い。


 懐かしい風。



 身の回りにある匂いを、意識的にかいでゆきたい。排気ガスのような不快な臭いはイヤだけど、そんなときは、少しのあいだ息を止めて。

 そしてゆっくり呼吸する時間ができたなら、『オルフェウスの窓』始まりの舞台であるレーゲンスブルクにも、いつの日か行ってみたいな。




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