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Fin[e]〜美しき終焉〜 を読み解く


序文

黒埼ちとせがデュオユニットを組むと
コミュの評判が割れる
過去から未来まで、変わらない事実だ

 本稿は、少々物議を醸した『Fin[e]~美しき終焉~』のイベントコミュ(以下「本コミュ」とする)を、可能な限り主観的な視点なしで読み解くものである。
 筆者の感想等を述べることを主眼としたものではない。むしろその逆、私個人の見解や主張をなるべく排し、制作側がどのような意図や狙いを持って本コミュを組み立てたのかを探るために、筆を執った。

 賛否両論になりがちな作品はもとより、大多数の評価が一様に揃う作品にも、受け手によって様々な受け止め方がある。肯定的、否定的、あるいはそれらが綯い交ぜとなったものと、それこそ十人十色であろう。
 本コミュにおいてもどうやらそれは同様であるらしく、故にこれを読んでいるあなたがどのような心象を本コミュに対し抱いているかは、あえて問わない。

 だが、どのような理解をするにしても、対象を正確に捉えられていないなら、正鵠を射ているとは言い難い。バイアス、色眼鏡、思い入れ……認知を歪ませるものは誰の耳目にもある。無論、私にも。評価や解釈が人によって様々に分かれるのはまったくの道理、しかし世に出た作品そのものは誰にとっても不変であり一定であることもまた論を俟たない。

 何か、致命的な見落としはないか。
 先入観や思い込みに、惑わされていないか。
 存在しない行間を幻視したり、存在しない意味を創り出したりしていないか。

 作品の実体を、掴めているか。

 確かめていこう。完全完璧にできなくても、今の筆者にできる範囲で。

本稿の前提

 上述の通り、本稿は「コミュ本文で何が表現したいのか」を読み解くために書いた。言い換えるなら、コミュ本文から読み取れないことは最小限にしか触れない
 また、イベント報酬SR2枚に含まれるいくつかのテキストについてはコミュ本文に相当するものとし、論考の対象としていいものとする。
 それ以外の過去イベントやSSRのテキストについては、基本的には考慮に入れない。繰り返しとなるが、本稿はあくまで『Fin[e]~美しき終焉~』のイベントコミュを読み解くことに軸足を置くためである。くれぐれも留意されたし。

死を想う者たち

 本コミュにおける最大の山場にして最も見解の分かれる部分は、間違いなく5話だろう。

イベントコミュ5話より

 初読時、筆者は「一ノ瀬志希が入水自殺未遂をした」と捉えた。だが何度か読み返すに、「黒埼ちとせが一ノ瀬志希を巻き込んで入水心中を企図した」と言い表した方が正確だと思い直した。本コミュオープニングにて警告した「自死にまつわる表現」、その主犯は本コミュにおいて何度か自死を仄めかした志希の方ではなかった。

 あえて断言しよう。本コミュを通して一ノ瀬志希は少しずつ死への意識を強めていって、けれど徹頭徹尾、本気で自死を決心するには至っていなかった

 一ノ瀬志希が死もしくは終焉への強い興味関心を持っていることは、これまでもいくつかのカード(主にSSR)のテキスト等で確認できる。本イベントコミュにおいても早くからたびたび示唆されていた。

イベントコミュOPより

 天使の役は飽きたと言いつつ、死にも触れられるお話になら一定の興味を示したり。

イベントコミュ1話より

 底なしの探求心の一環として仮死を実践したり。

イベントコミュ3話より
同上

 役に引っ張られてか、自ら選んだ終わり方についてPやちとせ相手に胸の内を吐露したり。

イベントコミュ4話より

 不慮の怪我で流した血から、失血死を連想したり。
 演技の部分、つまり死した少女たちを裁定する天使の役のほとんどを無視したとしてもこんなにある。この数と頻度が即ち、一ノ瀬志希という少女が持つ、死や終焉に対する興味関心の強さと言っていい。

 その一方で、では実際に死にたがっているのかといえば、それは否である。少なくとも、一ノ瀬志希が自発的に自死を選ぼうという意向は、コミュ本編を通して見出すことはできない。

 5話の入水心中、その直前にあった短いやりとりを見てみよう。

イベントコミュ5話より

 それ以上進んだら溺れる、と言われる程度に海へ踏み出し。それでもいい、一緒に来るかと問うたら、冷たい同意を投げ返された。
 そして、常の一ノ瀬志希では考えられない間抜けな「え……?」の直後に、ちとせは志希を巻き込んでの入水心中を決行する。

 本気で自死を考えていたなら、こんな言動をとっただろうか?

 本気で自死するつもりだったら、ちとせに真夜中の散歩に誘われる前、誰にも知らせないうちにさっさと命を擲っていたはず……とまで言ってしまうとドラマにならないし飛躍が過ぎるか。だが少なくとも、入水よりも「ちとせちゃんも来る?」と誘う方を優先したのは事実であり、それこそが彼女の中での優先順位を明示している。後に開示されるように、暗くて寂しい水底にちとせを独りぼっちにするのは嫌だとする底意を抱えている以上、自決を最優先とするならちとせには「じゃあね、バイバイ」とでも言い置いておけばよかったはずなのだから。

イベントコミュ5話より

 志希は本気で身投げするつもりなど毛頭なかった、なかったからこそちとせに一緒に入水しないかと誘った。「ちとせちゃんも来る?」との問いかけは、否定される前提での、戯言の類いに過ぎなかった。ちとせによる、普段よりトーンの低い「……いいよ、そんなに言うんだったら」という肯定は、だからこそ、志希にとってまったく予想だにしない返答だったに違いない。

死と向き合う者たち

 黒埼ちとせもまた、死を強く意識する者である。むしろ、190人いるシンデレラガールズアイドルの中で(もしかしたら今や300人以上いるアイマスアイドル全体の中で見ても)最も強く死を意識していると言っていい。
 過去から今に至るまでずっと、直面してきているのだから。

イベントコミュ4話より
同上

 根治の目処が立たない病を幼い頃から抱え、生死の境目を彷徨うことも珍しくなく。

イベントコミュOPより
同上

 アイドル活動のお陰かいくらかの改善は見られるものの、今なお検査入院は日常茶飯事。

イベントコミュ2話より

 多少の調子の良さなどいとも簡単に崩れ去ってしまう。このような身の上で、自身の死を意識するなという方が無理難題であろう。

 少し話は逸れるが、北条加蓮もまた死への意識が比較的に強いアイドルである。ただ、加蓮の場合、かつてはともかく今は(少なくとも志希やちとせほどには)死を意識していないとも受け取れる。

イベントコミュ1話より

 志希の仮死実験に対し「冗談じゃ済まない子もいるからほどほどにしなよ」などと他人事のように言っているが、自身も昔は病床に長く伏せっていた身、何も思うところがないはずはない。事実、ここでの加蓮の声色は普段よりもいくらか低い。戯れに死を実感しようとする志希への苛立ちや不快感の表れと解するのが自然だろう。
 だが一方で、怒鳴りつけたりあからさまな不機嫌を撒き散らしたりするのではなく、「ほどほどにしなよ」と窘めたり、Pに向けて「笑えるでしょ」と失笑したりするなど、加蓮の死に対する意識は今となってはそこまで濃厚ではない

 なればこそ、一ノ瀬志希や黒埼ちとせが抱える死への意識の濃厚さが一層際立つ。北条加蓮は、その対比のために本コミュに抜擢されたのかもしれない。

 ただし、黒埼ちとせは死を本心から望んでなどいない。それは先に挙げたコミュの引用部分からも明らかだろう。
「生者の、みんなの側にいたい」
「諦めがついたら楽になれると分かりつつも、諦める気はない」

 そう明確に口に出すちとせから、積極的な自死の意志を見出す方が困難だ。

イベントコミュOPより

 つまり、一ノ瀬志希も黒埼ちとせも、
・死を強く意識している
・積極的に自死するつもりはない

 という2点は共通している。

 ただ、この2点が重なっているといっても、相反する価値観をそれぞれに持っているのも事実である。そしてその齟齬に、ちとせも志希も本コミュの5話に至るまでに何度か気づいている。

イベントコミュ1話より

 臨死体験の一悶着の後に懸念の独り言を零したり。

イベントコミュ3話より

 自分で選んだ死はハッピーエンドとの主張にちとせはやんわりと不同意を示し、対する志希はまるで議論を打ち切るように突然の狸寝入りを始めたり。
 そしてその行き違いが一気に表面化したきっかけが、本コミュ5話の心中未遂なのだ。

イベントコミュ5話より

 ではその齟齬とは具体的に何か? それは自死の捉え方だ。志希は自死の価値を肯定しているのに対し、ちとせは否定している。ここが、部分的に重なる2人の価値観の、最も相容れない一点である。

自らを終わらせるということ

 先述した通り、志希もちとせも積極的に自死する気はない。故に、ちとせが自死に価値を見出していないのは何の矛盾もない。だが志希はどうか? 自死に価値があると認識しながらもそれを実践するつもりはないとは、どういうことか?
 少し、発想を捻ってみよう。志希が真に望むのは生理現象の一種としての死それ自体というより、死によって必然的に行き着く抽象的な概念としての終焉なのではなかろうか。

 言い換えよう。一ノ瀬志希が死に拘るのは、それが自身にとって最も望ましい終わりを最も早く、最も確実に実現する道筋だからなのだ。

イベントコミュ3話より
イベントコミュ5話より
同上

 死であれば何でもいいというわけではない。ちとせを巻き込んでの溺死などその最たるもの。だが、理想通りのハッピーエンドを迎えさせてくれるのなら自死も厭わない。リアリティ追求のためならプロデューサーや他のアイドルを慌てふためかせてでも臨死体験に興じるのと、構図としては相似形だ。
 志希が自死に価値を認めるのは、それが自分の悲願を成就させてくれる、少なくともその可能性があるからだ。少なくとも彼女は、そのように考えていた。

 そこに真っ向からの否を突きつけたのが、他でもない黒埼ちとせである。文字通り、その身命をも賭して。

自らを省みないということ

 ちとせは志希の、自死によってハッピーエンドを迎えんとする意向を、きっぱりと否定している。宿痾に身を侵されながらも生を諦めない前向きさ、志希の戯れにも付き合うお茶目さ等の存外に明るく大らかさな気質が目立つ彼女にしては、否定の語彙もその語勢も相当に強く、激しい。

イベントコミュ5話より

 イベントSR特訓コミュにて補足されているが、この時のちとせは当人も自覚できるほどにイレギュラーな振る舞いをしていた。他人の人生に踏み込んで怒るなど、滅多にしないこと故に。

イベントSR(ちとせ)特訓コミュより

 だからこそ、本人も自身の情動を制御しきれず、不可抗力的に想定外の言行になってしまった。いつでも明日を無邪気に待っていられるのを、当てつけがましく羨むほどに。

イベントコミュ5話より
同上

 本コミュの5話を読み、「ちとせはこんな物言いをしないはず?」と首を傾げた人も多いかもしれないし、本コミュの賛否両論の一部がそれに所以するとも考えられる。その所感はきっと正しい。むしろ普段からちとせをよく観察している人ほど違和感を覚えたことだろう。
 何が黒埼ちとせを、らしくない振る舞いにまで駆り立てたのか? 志希が大切な友達だから、というのも嘘ではない。だがそれだけで、文字通り命を擲つような真似ができるものだろうか。
 その答えは、ちとせのイベントSRから深堀りできる。

イベントSR(ちとせ)特訓後親愛度MAXメッセージより

 両親によって整えられた楽園、苦しみを和らげるための悲しい揺り籠は、だがちとせ自身にとっては不本意なものだった。独りきりの特別に追いやられるのは嫌だった、と。

イベントコミュ4話より

 その揺り籠からすぐに飛び立つことを、ちとせは望みはすれどできなかった。揺り籠から飛び立つ……これを自死の比喩と解するのは飛躍が過ぎるだろうか? 癒やしようのない死の恐怖、それをせめて和らげんとする庇護から自身の意志で離れるとは、つまりは痛苦を自らの生ごと終わらせることではないか、と。だがちとせは、かつてそこに夢を見ることがあったとしても、今はもう肌身で思い知っていることだろう……その先には何もない、と。

イベントSR(ちとせ)特訓前ホームメッセージより
イベントSR(ちとせ)特訓前ルームメッセージより

 死を希求する志希に、そこにハッピーエンドも何もありはしないと断言できるのは、ちとせを置いて他にはいなかった。

イベントSR(ちとせ)特訓前カードメッセージより

 体が弱いのに体を張るなど、とは作中のプロデューサーでなくてもげっそりしわしわするかもしれないが。今回の場合はその治りようのない虚弱さが却って「命を自ら投げ棄てたところでハッピーエンドになどならない」という説得力を補強しているようにも読める。そこまで計算に含めて、普段なら大切にしている自身の生命すら危険に晒して志希への説得に臨んだとするなら、まこと大したお転婆娘である。

逃げるもの、追いかけるもの

 ちとせは文字通りに捨て身の覚悟で入水心中未遂に及んだ。対する志希は、か弱い吸血鬼から突きつけられた暗く冷たい現実を、どう受け止めたのか。

 前々項で触れた通り、一ノ瀬志希にとって自死とは(本人にとっての)ハッピーエンドを迎えるための手段である。その根本について、本コミュでは志希が抱える逃避癖にクローズアップしている。
 直面した何かから、意識的にせよ無意識的にせよ目を逸らす、誤魔化す、蓋をする。その様子は、本コミュ2話を中心に、何度か描写されている。

イベントコミュOPより
同上

 たまたま目にした番組にて父が紹介されていて、一度は興味を持つも途中で視聴を打ち切ったり。

イベントコミュ2話より
同上
同上

 幼少期に味わった疎外感を夢に見ても「ツマンナイ」の一言で切り捨てたり。

同上
同上

 現場到着早々、ちとせとスタッフの会話に興味を示したのは、ツマンナイ夢の苦い余韻を払拭するためだろうか。だがすぐに興味をなくしたのは、同居人がいる前提の雑談で疎外感をぶり返されるのを避けたかったからかもしれない。

同上

 通りがかったPの匂いに惹き寄せられて、けれどカメラ班との打ち合わせに没頭しているのを見、すごすごと引き下がるのも逃避の一種と言えるか。わざわざ仕事の話に割って入るなど寂しく感じているのを晒すに等しい、それならそんな心境ともども背を向けた方がまだマシだ、と。

同上

 新人エキストラ達とのごく短いやりとりは、あるいは普段の志希なら気にも留めなかったかもしれないくらいにありふれたものだろう。だが、散々に孤独感を煽られた直後という間の悪さのために、敬して遠ざけられる居心地の悪さが際立ってしまった。
 紋切り型の短い挨拶と励ましで済ませたのを、志希なりの誤魔化しだと捉えるのは、少し考えすぎだろうか。

同上

 その割に、いざPと対面したら飄々とした振る舞いを見せる。殊更に何でもないと強調したがる天邪鬼な気質もまた、逃避の表れ方だろう。

同上
同上

 直後のちとせの立ち眩みへの気遣いに裏や下心はなかろう、けれど結果としてPはちとせの世話のために志希から離れることとなる、孤独と疎外感を置土産に。これもエキストラのやりとりと同様、他の積み重ねがなければ「ま、そういうこともあるよね〜」くらいに看過できていたかもしれない。
 そして、ここに至って尚、志希は自身の心境をはっきりとは把握できていない。もしくは、把握しようとしていない。タイクツなのかなと内心で首を傾げている……寂しい、とは言わずに。

 話は逸れるが、ここでひとつ、はっきりさせておこう。一ノ瀬志希は拭いきれない疎外感や孤独感を、幼い頃から今に至るまでずっと抱えている。それは本コミュ2話冒頭、夢として提示されたいつかの志希の描写からも明らかだろう。

イベントコミュ2話より
同上
同上

 園、という語から察するに保育園や幼稚園に通っていた頃か。他の女の子も言葉を話しているあたり、4歳や5歳くらいの年長さんと推測できる。その時点で父の論文を読んで理解できるのなら、なるほどギフテッドと呼ばれるに相応しい特別な子どもだったと頷ける。
 この時から既に、他の子ども達から特別扱いされることにも、それを黙して受け入れる術にも、志希は慣れ親しんでいた
 他の子どもたちが遊んでくれない、特別扱いされる疎外感から、父の論文に没頭することで目を背ける。そうすれば、少なくとも子どもたちの輪を乱すことはない。たとえその輪に、自分の居場所がないとしても。

 波風を立たせないという点において、賢明な判断ではある。だが同時に、どこか卑屈さをも感じさせる。あたしも輪に入れてよと、年頃の子どもには珍しくない図々しさをもって踏み込むことだってできたはずだ。だが志希はそうはしなかった。輪から離れて、自身の寂寥感をも黙殺し、学術論文のページとばかり向き合った
 それが長じて、逃避癖として定着したのだ。自分が爪弾きにされている(少なくとも、志希当人にとってそう認識される)状況を甘んじて受け入れて息を潜める、どこか後ろ向きな性向に。

 その逃避癖は、友達にして仲間である同僚アイドル相手にも発現する。

イベントコミュ3話より

 似たもの同士と見做していたちとせと、自死に関する認識が食い違ったと分かるなり、わざとらしく寝落ち(あるいは狸寝入り)する。単に志希とちとせに認識の齟齬があると示すだけなら、こんな不自然で脈絡のないテキストを追加する意味は薄い。それでも入れたのは、志希の逃避癖を強調するためと考えるのが自然だろう。
 ちとせが説得にあたり入水心中を決行した背景に、志希の逃げ場を奪う意図があったろうことも伺える。そうでもしなければ、またのらりくらりと躱されていたに違いない。

イベントコミュ5話より

 そうやって志希は半ば無理矢理に死の虚無を垣間見させられ、のみならず死を望む心境を解剖されていく。封印していた胸中にも、直面させられていく。

同上

 死の果てに美しい終わりなどはない、そこに夢など見るなと断じて。

同上

 志希が美しい終わりを夢見る、その原因たる脆弱な世界もまた、本人の因果応報だと喝破した。

同上
同上
同上

 刺々しい言葉と感情をぶつけ合うのも、ちとせにとっては多少想定外だったかもしれないが、志希の凝り固まった心情を吐き出させるには必要な処置だった。

イベントSR(志希)特訓前親愛度MAXメッセージより

 志希を爪弾きにした者たちに対する、どこか子どもじみた意趣返しの願望。その発端はもしかしたら、遠い昔に芽生えたほんの些末な嫌気だったかもしれない。だが一ノ瀬志希はかつての幼き日々から今に至るまで、ほとんど消化も解決もしないまま抱え続けていた。内省することから逃げ、それをおくびにも出さない振る舞いを身につけることで他人に悟られることからも避けた。類稀なる賢明さが、逃避する有り様を実現させてしまった。
 だが、そんな生き方の果てに、志希自身が「イラナイと思ったものは容赦なく放り捨てる」ことに何の躊躇いも持たなくなったのは、なんとも苦々しい皮肉だ。被虐待児が長じて自分の子どもにも同じように虐待する様相と、嫌な相似形を描く。

イベントコミュOPより

 ちとせの言う「世界をもろくさせているのも、大切にせず壊しているのも、志希自身」「全部かえってきて、傷だらけになっている」とは、こういった一面を含めての指摘かもしれない。

 よほどのことがなければ……それこそ本コミュのように、死やそれを望む元凶を想起させられる状況がいくつも重なった上でハッピーエンドに至ると夢見た自死を全否定されでもしなければ幾重もの逃避で覆い隠された本心を浮かび上がらせはしなかったに違いない。

イベントコミュ5話より

いつかの再誕へ

イベントコミュ5話より

 2人してあわや溺れる、というところでPの救助が間に合った。忙しなく叱りながら保護や手当のために奔走するPを見送りつつ、激情をぶつけ合った志希とちとせは静かに語らう。

同上
同上

 志希のイベントSR特訓コミュはこの時のことを振り返っての、Pとの会話だ。

イベントSR(志希)特訓コミュより

 おそらくはこれの後に、2人を正式にユニットとして扱うことも決まった。その時の志希は去り際にこんなことを言っている。

イベントコミュEDより

 逃避癖が多少なりとも鳴りを潜めているのが見てとれる。Pに己の複雑な心境を吐露し、少なくともしばらくは逃げるつもりはないと明言しているのはその最たるものだろう。だが一方で、寂しさを頑なに認めたがらないのも、死や終焉への意識が強いままなのも、大きくは変わらない。本コミュの途中でしばしば描写された、志希が根本的に抱える寂寥感も、解決・解消されたわけではない。
 入水心中未遂という大事があった割には、今ひとつスッキリとしないオチだと言えよう。ただ、これはPやちとせが意図したものだとも考えられる。

 Pはともかくちとせも、志希に対し、死や終焉に関心を向けるなとまでは言っていない。Pも逃避そのものを、本気で問題視している様子はなかった。

イベントコミュ4話より

 そしてちとせも、終焉を意識すること自体は終始咎めなかった。「私を無視すれば終われたのに」などと意地悪な物言いをするあたり、自死に夢を見るなと突きつけはしても「それでもやっぱり自死がいい」と志希が決めたなら、その意志や選択は甘んじて受け入れる覚悟はしていたのかもしれない。結果として溺死すると、ちとせ自身が分かった上で。

イベントコミュ5話より
同上

 繰り返しとなるが、Pもちとせも、志希の根本的な寂寥感やその解決にまでは踏み込まなかった。根深い疎外感に由来する自死への関心にある程度の楔を打ち込む、そのために志希とちとせを「MedeN」というユニットとして扱うくらいで、本コミュで提示された志希の歪みはほぼ提示されただけに終わった。
 作中のPはもちろん、ちとせにだって志希の胸中はまだ開襟されきっていない。読者たる我々に対してでさえ、志希の思考や感情は多くが伏せられたままなのだから。そう考えれば、作中のPもちとせも、踏み込もうにも踏み込めなかったとも解せる。

 ただ、必ずしも今回だけで解決に至らなければならなかったわけではないことも、本コミュの中で何度か触れられている。逃避に所以する短絡的な選択を咎める意向も、また。
 それが顕著に見られるのが、本コミュ内で志希やちとせ達が撮影に参加していた映画の内容であろう。

イベントコミュOPより
同上

 終焉の死と再びの生の狭間にて、意図してかそうでないかは別にしても常から外れた者同士として出会った二人が、

イベントコミュ1話より
同上
イベントコミュ2話より
同上

 群れの中での特別とはどういうことか、触れ合う中で迷いに満ちた内省をも深めていき。

同上
同上

 意味なき異端者としての心を尊重するべし、と説いたチセ自身が、

イベントコミュ3話より
イベントコミュ4話より
同上

 自らを終わらせたことに、大罪としてだけではない悔悟を吐露し。

同上

 その後ろ暗い心情に寄り添いたい、自身を赦してくれた少女に救いを齎したいという、異端の天使の想いが、

イベントコミュEDより
同上
同上

 逃避ゆえの短絡ではなく、エゴと言えるほどに確かな意志、他でもないチセが是認してくれたイレギュラーの所以をもってその身を捧げ、

イベントコミュEDより
同上

 そして遠いいつかの日、互いを赦し赦される時の来ることを約束して結実する、ハッピーエンドの物語。
 映画において、自らをシキと名付けた天使は最終的に(生物ではなさそうなのでこういう言い方は相応しくないかもしれないが)自死を選ぶに至った。けれどそれは、誰かに自身の特別たるを肯ってほしいがためではない。チセ、もといチトセもまたその意を汲んだからこそ、シキの選択を尊重して受け入れ、そして自らの本当の名を告げた。疎外された生から逃げるための自死で棄てざるを得なくなった、永き時を征く願いと共に。
 二人の交わした約束を確かなものとするに、これほど相応しい願いもない。

 天使シキは自死を選んだ。だが一ノ瀬志希は、選ばなかった。自分ではない誰かの演技を通し、もしかしたらあったかもしれない自分の選択を、埋葬したのだ。虚構にいくらかの真実を、志希が死を希求する気持ちを、副葬品として手向けながら。

イベントコミュOPより
イベントSR(ちとせ)特訓後ルームメッセージより

 それすらもちとせの手のひらの上だと捉えるのは、果たして考えすぎだろうか。

筆者の所感、雑感

 本稿の主眼、すなわち本コミュの読み解きは以上である。以下、本旨とは外れるが記し残しておきたいものとして、筆者自身の感想などを、軽くしたためておく。

 私が考えるに、本コミュの読み解きを難しくしている一端は、一ノ瀬志希のモノローグや心情描写が極端に少ないからではないだろうか。ちとせはモノローグで語る部分もいくらかあったり、P相手に考えを開陳することもあったりと、その思考は存外に読みやすくなっている。だが志希はといえば、置かれた状況への反応は幾度となく描写されても、その時に何をどう感じたのか、ほとんど言葉で示してくれない。よって彼女の心情に迫るなら、限られたテキストや状況証拠から「おそらくこのように考えているはず」と類推するしかない
 この感触、フロム・ソフトウェアの手癖が悪い方向に出た時と、そこそこ似ている。

手癖が悪い方向に出た、最も極端な例
画像出典:https://www.playstation.com/ja-jp/games/bloodborne/

 ただ、筆者の場合、フロムゲーやその制作陣が織りなす世界観に慣れ親しんでいたからこそ、それと似通った手法を採っていたと思しい本コミュの読み解きも比較的にスムーズにいった……かもしれない。

 他との類似性というと、これ以外にも思い当たるものがある。決して褒められたものではない気質を全否定はせずに受認するというところは、デレステの『モラトリアム』イベントコミュにも通ずるものがある。

『モラトリアム』イベントコミュ4話より
同上

 ダメ人間たるを自覚し、それを根本的に治そうとまでは張り切らず、まぁほどほどにテキトーに楽しくやっていこうよ。それでいいじゃん、と。
 短所を開き直っているにも近しいが、短所をすら個性の一端として受け入れると考えたなら、むしろ190人分もの変なアイドルがひしめくシンデレラガールズにこそ相応しい
 一ノ瀬志希が抱える死や終焉を想わずにはいられない歪みも、黒埼ちとせが孕む意義さえあれば大事にしている命をすら投げ出しかねない危うさも、そういう個性として肯定しよう。そのためにこそ、『Fin[e]〜美しき終焉〜』コミュは組み立てられたのではないだろうか。

 ただ一方で、譲れない、踏み越えるべきでない、目を背けてはいけない一線があるのも確かであり、そのために荒療治とも言えるやり方を採らざるを得ないこともある、本コミュにおけるちとせの入水心中未遂のように。これはアイドルマスターの他ブランドからいくらか似通ったシチュエーションを抽出できる

 一つに、アニメ版sideMのプロローグエピソード『Episode of Jupiter』から。

画像出典:https://sp.b-ch.com/titles/5762/001

 765ASのアニメ版(通称アニマス)および同作の映画版(通称ムビマス)とsideMのアニメ(通称アニエム)を繋ぐ前日譚で、961プロから放逐されたJupiterの3人が、自分たちの手の届く範囲でアイドル活動に邁進している様子を描いている。後に所属することとなる315プロの齋藤社長とも出会い、だが彼に突きつけられたのは箱の小ささ故にチケットが取れず涙するファンの姿だった。
 自分たちだけの力でアイドル活動をする、それでは確保できる会場のキャパは小さくならざるを得ない。ライブを見たくても見れないファンも当然に増える、そんな悲しみを強いるを是とするのか、と齋藤社長は問いかけた。
 社長とてJupiterの意向を頭から否定したわけではない、けれどその手段としてフリーであり続けることを選ぶのは決して賢明ではなかった。3人がそれに気づいていなかったのか、気づいていて目を背けていたのかは判然としないが、ともかく社長からの問いは苦々しさを含みつつも軽々な反駁を許さないものであった

 この類例のもう一つに、『学園アイドルマスター』の有村麻央アイドルコミュが挙げられる。

『学園アイドルマスター』有村麻央アイドルコミュ3話より

 歌劇団のスターへの憧れから幼少期より子役として活躍し、

同上

 けれど長じるにつれ変わっていく我が身を受け入れられず、王子様の演技を無理して貫き通すという、当人も悪手と分かっているスタンスで燻っていた。

『学園アイドルマスター』有村麻央アイドルコミュ4話より

 それを是正するために採った手段が、当人が忌避していた可愛らしさをこそ追究することだった。有村麻央はもちろん反発するが、

『学園アイドルマスター』有村麻央アイドルコミュ9話より

 結果から言うと作中のPの目論見は功を奏した。麻央はかっこいい王子様への憧れを、自身の生来の可愛らしさからの逃避としてではなく、ありのままの自分を受け入れた上での魅力として発揮できるようになった。

 こうして見ると、本コミュは自死描写の物々しさに意識を割かれがちだが、その軸はアイドルマスターとしてもシンデレラガールズとしても繰り返し用いられるくらいには普遍的だと言えるだろう。

 殊更に矮小化するでもなく、はたまた特別に誇大な吹聴をするでもなく。
 『Fin[e]〜美しき終焉〜』コミュは実に“らしい”一本だった、という締めでもって、一旦は筆を置くこととしよう。




















 と、それはそれとして完全に蛇足ながら付け加えよう。
 アイマスPにしてフロム者である筆者としては触れずにはいられない、とある褪せ人の旅立ちについて。

 無印ダクソでクラーグやアルトリウスを呪死状態のまま下した不死の勇者が、狭間の地にて如何なる活躍を魅せるか、とても楽しみである……


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