シャニマスコミュは基本的に面白くない、というお話
やあ┌(.┌ 冥)┐
ようこそ、へその人ハウスへ。
このヒーリングタルトはログインボーナスだから、まず食べて体力回復して欲しい。
うん、タイトルはある種の「釣り」なんだ。シャニマスコミュに文句をつけたりお気持ち表明をしたりする記事じゃない。そういうのを求めていた人がいたら済まない。
ふゆの顔も三度までって言うしね、謝って許してもらおうとも思っていない。
でも、このタイトルを見たとき、君は、きっと言葉では言い表せない「何言ってんだコイツは」みたいなものを感じてくれたと思う。
殺伐とする前に、「そもそも面白さとはなんぞや?」ということを一緒に再考してみてほしい。そうすることによって、シャニマスコミュを少し変わった視点で観察し論じることができるようになってほしい。
そう思って、この記事を書いたんだ。
じゃあ、本題に入ろうか。┌(.┌ 冥)ノ
※本稿では『薄桃色にこんがらがって』『五色爆発! 合宿クライマックス!』『ストーリーストーリー』のコミュイベントの本文が一部引用されていますので、未見の方はご注意あれ。
○「面白さ」is 何?
本稿はタイトル通り、「シャニマスコミュは基本的に面白くない」がテーマになっている。そしてその話をする上で、まず「面白い、とはどういう意味か」について触れておきたい。いや、触れておかなければならない。
最初に断っておこう。本稿では「面白さの定義は人それぞれ」という言説を断固として否定する。そうしないと、面白いという語の使用が著しく困難になるからだ。
「面白さの定義は人それぞれ」を前提とする場合、私が言う面白さとあなたが言う面白さがそれぞれまったく別のものを指している状況もありうる。いや、そうなるものとして考えなければならなくなる。何せ、あなたは面白さという語を「作品から感じる魅力」という意味で使っているかもしれないのに、私は同じ語を「一日中履いた靴下から漂う臭さ」という意味で使っているかもしれないからだ。もしかしたら世の中にはそのどちらでもなく「一週間で降った雨の激しさ」や「車で運転している時に感じるドキドキ感」を指して面白さと言っているかもしれない。
そんな状況で面白さという語がまともに使えるだろうか? コントでなら出番があるかもしれないが、少なくとも日常会話ではろくに使い物にならない。
それでもこの語を使いたいのなら、面白いという語を使うたびに「私はこれをこういう意味で使っています」と注釈をつける必要がある。しかし現実問題、世で「面白さの定義は人それぞれ」との言説を信じる人たちが、そのような手続きを逐一踏んでいる場面を、少なくとも私は見たことがない。
このように、明らかな無理のある言説を、私は採用する気にはなれない。ではどうして、「面白さの定義は人それぞれ」という言説が広く支持されているのかについては……本稿の主題とはあまり関係がないので「面白さという語や概念に、見かけほどの興味関心がないからだろう」という筆者の当て推量を記すに留めておく。
では、面白さの定義とは何か? 私は鳥山仁氏の著作『純粋娯楽創作理論 第一章・面白さの基礎原理』から引用する。本書は面白さの原理を解明することで、どんな作品が面白いか(あるいは面白くないか)を見分けられるようになることを目的としている。そこでは面白さは次のように定義されている。
「面白さとは『人間の“予測能力”を逆手にとった錯覚、あるいはトリック』です。」
「予測していなかった=予想外の出来事が起こることが面白さの本質」
人間を含む一定の高等生物には、予測能力がある。ごく簡単な動作であろうと、長期スパンの将来設計であろうと、はまたた的中しようとするまいと、何の予測もせずに生きている人間はまずいまい。
そして、その予測が外れる事態をこそ、『純粋娯楽創作理論』は「面白い」と定義している。
ここで強調しておかなければならないのは、「面白さを好まない人」「面白さを嫌う人」の存在が『純粋娯楽創作理論』では繰り返し強調されていることだ。何せ先の定義に則るならば、次のような状況も「面白い」ことになる。
・結婚式を翌日に控えた新郎が、交通事故に巻き込まれて死去した
・絶対に受かると思っていた試験で、不合格となった
・仲の良さを表現するために撮ったVTRが、番組で不仲の場面として編集された
他にも具体例はいろいろ挙げられるが、いずれにしても「促された予想が、後に裏切られる」という点では共通している。だが、こういったシーンが好きな人たちばかりでもないだろう。むしろ嫌悪する人も少なくないはずだ。
要するに、「面白い/面白くない」ということと「魅力的/魅力的でない」は別個の要素なのだ。組み合わせとしては次の4通りが考えられる。
①面白く、かつ、魅力的
②面白く、かつ、魅力的でない
③面白くなく、かつ、魅力的
④面白くなく、かつ、魅力的でない
これらのうち、①と④については想像が容易いだろう。②は上述した「予想外だが嫌う人も多い展開」のことだ。③は直感的には分かりづらいかもしれないので具体例を挙げると、NHKの朝ドラがある。
私自身、朝ドラを毎回毎朝しっかりと観賞しているわけではないが、大枠では毎度それほど変わりがないように見える。時代はだいたいが第二次大戦中から現代の範囲内で、舞台も日本のどこか。朝ドラヒロインという言葉があるように主人公やそれに準ずる女性がいて……などなど、一定のパターンに則っている。少なくとも「次の朝ドラは宇宙艦隊に務める整備員の話だ」とか「難破した船から脱出し無人島でサバイバルする話だ」という時期はなかった……はずだ。あったら申し訳ない。でも観たい。
ともあれ要するに、朝ドラは視聴者の予想を裏切る範囲が狭い。換言すると、面白くないのだ。では朝ドラは魅力的じゃないのかというと、それは愚問と言わざるを得ない。作品によって評価に上下があるのは事実だが、出勤や家事の前に観る人も世には少なくない。むしろそういう視聴者層にとっては、予想が大きく裏切られないのでストレスなく観れるという魅力があるのだ。「面白くないものを好む」「面白いものを嫌う」とはこういうことである。
私はここで「魅力的とは何か」については詳述しない。本稿はあくまで「面白さ」に照準を絞った記事であり、従って、魅力的かどうかについて必要以上に論じるつもりはない。それでも簡単に触れるとしたら……「人それぞれ」が一番簡単だろう。
登場人物がたくさん出る物語が好きな人がいる、少ない方が好きな人もいる。人間の情緒にズームアップした作品を好む人がいる、心情面を直接描写されない方を好む人もいる。何に魅力を感じるかとはつまり、どういったものに価値を見出すかということだ。そしてそれは内心の自由の領分であり――まぁ、商業的な魅力、即ち「売れるか売れないか」という内心もへったくれもない価値もあるが、いずれにしても――ひとつに定めることなどできない。
先に述べた「面白さの定義は人それぞれ」と主張する人々も、実際は「人が何に魅力を感じるのかは人それぞれ」ということが言いたいのだろう。だがそうだとしても「面白さ=魅力」という定義がなければ成り立たないので、やはり「面白さの定義は人それぞれ」という主張が一顧だに値しないのに変わりはない。
○「面白くない」のは「感情移入のため」
ここまで読んだ人なら、本稿のタイトル「シャニマスコミュは基本的に面白くない」が必ずしもシャニマスコミュを貶しているわけではないと理解できるはず。魅力的じゃないのではなく、読者の予測を大きくは裏切らない傾向にあるということだ。そしてこれが最も大きく寄与しているのが、感情移入のしやすさである。
感情移入がどういうものかは『純粋娯楽創作理論 第二章・キャラクター分類指標』にて章が割かれている。というのも、感情移入は面白さと相反する原理で成り立っているため、面白さを重視した作品を作る際に「感情移入を重視する人は面白さを理解できない」という問題が立ちはだかってしまうのだ。どうしてそれが起こるのか、そしてどうすれば回避できるのかを示すために、感情移入のメカニズムが仔細に解説されている、次の通りに。
「感情移入とは、作中の登場人物、あるいは作者自身が『何を考えていたか』を予想する行為です。」
「感情移入は基本的に類似の法則に則って行われます。これは、生まれた場所、育成歴、年齢、用いている言語、性別などが近ければ、それだけ親近感を抱きやすいという原則を表した心理学用語です。」
要するに感情移入とは、登場人物や作者の思考を予測し、かつ、それが合致することで成り立つ。これは明らかに、面白さとは正反対の原理だ。
面白さは「予想を促し、かつ、それを裏切る」もの。これに対し、感情移入は「予想を促し、かつ、それが裏切られない」もの。まったく相反する仕組みなので、片方を重視すれば他方が疎かになる傾向がある。ひとつの作品で面白さと感情移入を両立させることも、実のところ不可能ではないのだが、大抵はどちらかに比重を傾けるものだ。
そしてシャイニーカラーズのコミュは、明らかに感情移入に重きが置かれている。実例については、ここでひとつひとつ示すまでもないだろう。普通の女の子たちがアイドルになり、仲間と出会い、笑い合ったり悩んだり、時には衝突したり、そして成長したり……。言葉にしてしまうとごくありふれたあらゆる出来事を、微に入り細に亙り、情緒面も抜かりなく、BGMや効果音や背景や立ち絵のモーションなどを利用して描写し尽くす。その様相を、シャニマスコミュで見出せない方が珍しいくらいだ。
一度、シャニマスコミュの叙事面にのみ着目してみてほしい。キャラクターの心情面を一切合切考慮せず、起こった出来事や各人の行動をただ時系列順に並べる。全てのシャニマスコミュがそうだとは言わないが、平坦で詰まらないものに見えてくるのが大半だ。
その最たるものが『薄桃色にこんがらがって』シナリオコミュである。この物語において、出来事そのものに意外性やどんでん返しは全くと言っていいくらい含まれていない。アプリコットのカバーガールに内定していた大崎甘奈は順当にその仕事に就いたし、桑山千雪の挑戦は予想された通りに実を結ばなかった(後に別の仕事に繋がった描写もあったが)。アプリコットの編集部はもとより、大崎甜花もプロデューサーも、状況を一変させるような行動がとれていたわけではない。叙事的には極端なまでに面白みがないのだ。
しかし、いやだからこそ、各キャラクターの叙情にスポットライトを当てることができた。状況がどうしようもない、動かしようがないからこそ、各人の悩みや迷いが色濃い説得力とともに表現できていた。二進も三進もいかない息苦しさの中だから一層、“反対ごっこ”の叫び声は真に迫っていた。
もしここに面白さを強引に盛り込んでいたら? 例えば……桑山千雪がカバーガールの座を土壇場で手中に収めていたとしたら? それまで極限の精緻さで綴られてきた心理描写がすべて台無しになってしまう。上質な料理に蜂蜜をブチまけるがごとき蛮行だ。そうなっていた場合、この物語は実際ほど評判になっていただろうか? 私にはとてもそうとは思えない。
『薄桃色にこんがらがって』は極端な例だが、他のシャニマスコミュも全体的に、面白さが控えめになっている。しかしそれは、シャニマスコミュ制作スタッフに、叙事面で面白さを作り出す能力が欠如していることを意味するものではない。読者をキャラクターに感情移入させる、その一点に愚直なまでに集中した結果だ、という風に私は考えたい。
○シャニマス流「面白さ」の使い方
とはいえシャニマスコミュに面白さが一切ないわけではない。私が確認できた範囲では次の二つのパターンが特徴的だった。
A:キャラクター確立のため
WING編の風野灯織のコミュで、落ち着くための願掛けをプロデューサーが教えた時に「もうやっている」と返される場面がある。人によってはいくらか意外に映ったはずだ。彼女は、他のアイマスで言えば如月千早や渋谷凛、最上静香、桜庭薫のような「コンテンツの顔役となる三人組のうち、青のイメージカラー担当」という立ち位置にいる。いわゆる、信号機の青だ。そして前述の“青枠”たちは大抵、クールでかっこよくストイックなキャラとして描かれる傾向がある。願掛けなど不要、と反発されることさえあるだろう。
風野灯織も似たようなキャラか……と、思った読者を華麗に裏切ってみせたのが「もうやってます」という反応なのだ。アイドルマスターというコンテンツの歴史をも前振りとして使った面白さだと言える。
前振りからの裏切りがより短い例としては、放課後クライマックスガールズの最初のシナリオイベント『五色爆発! 合宿クライマックス!』がある。有栖川夏葉が「あまりはしゃぎ過ぎないように」と言った、その直後に黒板が上下に動く様子にはしゃいでいる場面だ。
即堕ち2コマかと錯覚するほどスピーディに面白さが描かれているが、有栖川夏葉が放課後クライマックスガールズで最年長にして唯一の成人アイドルであるということも把握していると一層面白くなる。「ああ、やっぱり二十歳なんだからまとめ役みたいになるのね」と予想への説得力が補強されたからこそ、その後の「いやいやお前が一番キャッキャしとるやないかーい!」という落差(つまりは面白さ)がより顕著になるのだ。
これらはいずれもシャイニーカラーズというコンテンツの最初期に公開されたコミュのものだ。読者の側もアイドル達のキャラクター像が把握しきれていない、「信号機の青枠だからクールにかっこいい奴なんだろう」とか「大人なんだから落ち着いた人だろう」などといった先入観による誤解(誤解と自認すらできないものも含め)が払拭しきれていなかった時期とも言える。面白さの原理に当てはめるなら、これらが促された予想にあたる。
そして実際には、先述の通り、予想は裏切られた。面白かった。先入観というありきたりな予想から、各アイドルらしさのイメージを確立させる、そのギミックとして面白さが使われたのだ。そしてこの面白さはコンテンツに興味を引かせるフックとしての役割もあっただろう。「コイツらは従来の子らとはひと味違うらしいぞ?」「一筋縄でいくキャラクターじゃないらしいぞ?」と。
いつでも、何度も使える手ではないが、だからこそ効果的な場面ではこの上なく映える。
B:後のカタルシスのため
今度は打って変わって比較的最近のシナリオイベント、『ストーリーストーリー』から紹介しよう。撮れ高のために白瀬咲耶と田中摩美々と幽谷霧子が独自に撮ったビデオが、三峰結華の別の発言と繋ぎ合わされて、まるでアンティーカが仲違いしているかのような映像としてオンエアされた場面。
どんな風に放送されるのか、楽しみにしながら待っていた面々が揃って絶句したこのシーンは、間違いなく面白い。ただし、感情移入を是とする読者にとっては好ましくない面白さだったはずだ。キャラクターに感情移入している読者は、キャラクターが不快な気持ちになったことで、自分自身までもがその不快さをトレースしてしまったに違いない。感情移入が面白さと衝突しがちだと言ったのは、こういうことがしばしば起こるからである。
とはいえ勿論、単に“魅力的でない面白さ”を配置しただけでは終わらない。ここでのモヤモヤした気持ちがあればこそ、後にプロデューサーも一緒になって編み出した一計で一矢報いてみせた時のカタルシスが大きくなったからだ。
少し意地悪な見方をすれば、シナリオコミュの盛り上がりのために読者の感情移入すらも利用した構図になるだろうか。もし製作側が意識的にそうしていたのだとしたら、「生きていることは物語じゃない」という幽谷霧子の言葉に更なる意味深さを感じないでもないが……いずれにせよ、こちらの手法は読者がキャラクターにきちんと感情移入できていなければ十分な効果が得られない。そして読者がそのキャラクターのことをある程度以上は理解できている(少なくとも、そう思っている)と、感情移入は格段にやりやすくなる。つまり、上述したパターンAとは正反対に、読者の中でのキャラクター像が確立した後だからこそ使える面白さの一用法なのだ。
とはいえ、これはこれでパターンA同様に使いどころが限られる。いくらカタルシスのためとはいえ、感情移入を是とする読者層が不快に感じる手法を何度も使っていてはせっかく確保した固定ファンも離れてしまうことだろう。総じてやはり、シャニマスコミュでの面白さは限定的な使い方に留まるものと思われる。
シャニマスコミュで面白さが特徴的に用いられている例は、他にもあるかもしれないが、筆者が特に取り上げたいと思ったのはこれら二つだ。そしてそのいずれも、コミュ製作側が読者をどう誘導しようとしているのかということと不可分である。
そしてこれは何も、面白さに限った話でもない。感情移入を重要視している(≒読者の予想通りかそれに近い形で物語を動かしている)時であっても、そこには何かしらの目的意識があると考えるべきだろう。「どんな話でもいいから感情移入さえしてくれればいい」のではなく「感情移入してもらうのは大前提として、どういうお話を読んでもらい、どんな気持ちになってもらおうか」という風に。
「促された予想が、裏切られるか裏切られないか」という視点で物語を見る時。焦点は自ずと「製作側は読者に、どういう体験をしてほしいのか」に収束する。そしてそこから、製作側の意図や目的が連鎖的に見えてくることだって、きっとあるだろう。
○結び
聞くところによると、医療の現場において「清潔」という語は一般と異なる意味で使われているらしい。
清潔とは滅菌した状態(すべての微生物を死滅させた状態)か、滅菌できないものでは殺菌した状態(一部の微生物は生き残っているが、クリーンな状態)を指します。
一般的な感覚からすると随分と厳格な用法だ、何せこの基準でいうと地球上のほぼ全域が不潔の烙印を押されてしまう。それでも上述したような使い方がなされているのは、そういう見識が必要な仕事場だからだろう。筆者は医療に関してはズブの素人だが、オペにおいて僅かな菌が致命的になりうるであろうことは想像に難くない。
語の使い方とは、認識の在り方に他ならない。
日常生活を送る上で、医療用語としての清潔はまず考えなくていい。大多数の人間は、滅菌を徹底しなければならない場面にはまず出くわさない。同様に、面白さという語を「作品から感じる魅力」くらいの意味で漫然と使っていても、だいたいにおいて支障はないだろう。語の使い方、つまり物事への認識の在り方が多少ガバガバでも、世の中は結構、平然と回ってしまうものだ。
しかし一方で、専門的な見識があってこそ見えてくるものもある、“清潔”な手術室でこそ入れられるメスもあるように。あるいは、写真家ならではの知見でカードイラストを読み解くという手法もあるように。
とはいえ究極的には、専門知識すらも必須ではない。あなたの目は、あなたの頭は、あなた以外の者には持ち得ない。そして勿論、それらから得られる、あなたの感性も。大枠において他の人と似通った感想だったとしても、あなただから感じ取れたもの、あなただから目に止まったものは、必ずどこかにあるはずだ。専門的な知識や語の用法は道具に過ぎない、あなたが見識を得るための。
そしてその、あなたならではの見識をより仔細に内省するためにも。
語の使い方、捉え方には出来る限り敏感でありたい、願わくばいろいろな見方を使えるようでありたい……と、筆者自身の抱負を記したところで、ひとまずは筆を置くこととする。