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神社で一礼する外国人を見て考えたこと。

今日はアルバイトで西宮神社に行った。

バイト中、とある外国の方が神社の門をくぐる前に、日本人同様、一礼している姿を見かけた。

その方が観光客なのか、移住されて来られた方なのかは分からないけど、日本の文化に適応しようとしている姿に、僕は少しほっこりした。

門をくぐる前に頭を下げるという風習は、
おそらく欧米人であろうあの方の国にはない文化のはず。

それでも、その方は

「今私は日本にいるんだ」

ということを自覚した上で、母国ではないであろうこの国の文化に合わせて、他のお客さん同様に一礼をしてから門をくぐられていた。

僕は彼のその行動が、

この国への尊重に見えて、

全く関わりのある方ではないけど、見ていて嬉しい気持ちになった。

環境に適応しようとすることの大切さ

を感じた。

僕は、

環境に適応しようとする姿が、

その環境に対するリスペクトであるとも思う。

どこの環境でも、自分をブラさずに貫き通すことも「自分らしさを維持する」という意味では大切かもしれない。

それでも、今の自分がいる環境を理解した上で、

その環境を尊重し、適応しようとしながら、その中で自分らしさを出せるように工夫すること

も、とても大切であると僕は思った。

また、コミュニケーションの中で相手が使った言葉を自分も使うことも、同じように大切だと僕は思う。

心理学的にも、人は自分と同じ言葉を使う人に親近感を抱きやすいという話を聞いたことがある。

例えば、普段自分が全く使わない言葉だったとしても、相手がその言葉を選んだのなら自分もその言葉を使う。

マクドナルドのことを普段は「マック」と呼んでいる人がいるとする。

ただ、相手が

『マクド』行きたいわぁ」

と言ったのなら、
自分も相手に合わせて

『マクド』、ありだね!」
と意識的に同じ言葉を選ぶ。

もちろん相手には、普段「マクド」なんて言葉は使ってないことは、ぎこちなさからも伝わっていると思う。

それでも相手としては、

自分と同様に「マクド」という言葉を使ってくれることで、

「この人はちゃんと自分の話を聞いてくれている」

と、嬉しく感じると思う。

それでもこの話を聞いて、「いや、相手なんて気にせず、普段の自分通りで行くのが一番やわ」と考える人もいるかもしれない。

たしかに、自分らしさを出すという意味では、普段通り、自分の言葉でも良いと思う。

それでも、相手は自分の言葉を同じように使われると嬉しく感じやすい。

どちらを使っても相手に意味としては問題なく伝わるが、それならどちらを使うほうが良いか。

そこまで考える必要がないことなのかもしれないが、せっかく選択肢があるのなら

相手に良い影響を与える方

を選んだほうが良いのは間違いない。

「環境に適応しようとすること」

「相手の持つ世界に適応しようとすること」

これが、その環境や相手にとっては、

「リスペクト」

として映るのではないかと僕は思う。

「自分らしさ」は、相手への配慮行う中で出していけば良い。

今日神社で出会った外国の方のように、

僕は

柔軟さ誠実さ

を備え持った生き方を大切にできる人になりたいと思った。

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