筋の良さ vs 腕力

 「筋の良さ」と「腕力」の対立は、あらゆる戦闘的な営みにあらわれると言ってよい。それは将棋でも囲碁でも、格ゲーでも、なんでもそうだと思う。
 こういったものをここでは「ゲーム」と総称することにしよう。ゲームにおいては、状況を検討して次にすることを決める必要がある。「筋の良さ」と「腕力」の対立は、次にすることの候補を探索し、有利と思われる手をえらぶときの方針にあらわれる。

 「筋が良い」というのは、知識や経験によって探索する範囲をあらかじめ絞る方針のことだ。対して「腕力」は、探索する範囲を限定せず、一見ありえないような選択肢や、定跡化・定番化していない手まで幅広く探索する方針だ。これは、膨大な手を検討する「読み」の能力が十分あることも含意している。
 もちろんこのふたつの方針は併用されるべきものであり、ある人をどちらか片方に当てはめられるわけではない。「筋が良い」人は読みの能力が低いかといったら、そんなことはないのだ。しかし、プレイヤー同士を対比するときにこれらの概念を使うことはできる。たとえば将棋の例を見てみよう。将棋世界1994年11月号における先崎学六段の発言から。

―前期のリターンマッチとなった羽生-郷田戦ですが、同世代の先崎六段は両者をどのようにご覧になっていますか。
(前略)……
この二人は、将棋のタイプが非常によく似てて、妥協をしない。その代わりリスキーなところがあります。お互いよく読んで前に踏み込むタイプですが、羽生さんの方が読み筋の選択肢が少し広いですね。郷田さんは、形に馴染んで深く読む、つまり先入観を持って読み筋に臨む。

ここでは、比較すると郷田九段のほうが「筋が良い」タイプで、羽生九段は「腕力」の比率がすこし高いということが言われている。もっとも、羽生九段の指し手は鮮やかなイメージがあり、腕力があるという形容はあまりされないかもしれない。

 さて。「筋の良さ」はゲームの序盤・中盤や、平常時で有利にはたらきやすい。序中盤はできることの幅が広いから、力任せにプレイすることで優勢を得ることはかえって難しく、定番の作戦をよく把握していることが有利にはたらく。
 また、ゲームに波乱がおきていない平常時には「筋の良さ」が役に立つ。有利を取れる定番の行動を知っていて、それを放つだけで勝てるなら、こんなにラクなことはない。

 対して「腕力」は、ゲームの終盤や、異常時に有利をもたらすことが多い。ゲームの終盤では、定番の選択肢を選べば勝てるという場合は少なく、どうしても探索の能力が必要になる。また、異常事態に突入すれば筋によって読みを絞り込むことができなくなるから、腕力のあるものが有利になるのはもちろんのことだ。

 ここまで読んで、「腕力」に読みの能力が高いという意味も含まれているのだったら、「腕力」がある者が強いのは当たり前だと思う人もいるかもしれない。それは正解だ。
 しかし、多くの人は「筋」を身につけることでしか強くなれない。「腕力」まかせに我流で強くなるのは難しい。だから教本を読んだりして筋の良い手を身につけるわけだ。そうすると必然「筋の悪い手」を検討する頻度は下がり、腕力派とは言えなくなる。筋の良さと腕力が両立できれば最高だが、なかなかそうはいかない。

 まあ、我流で強くなってしまう人もいて、たとえばグロタンディーク(Grothendieck)という数学者がいる。彼は "数学を教えることに関して、フランスの大学の中で最も遅れたうちにいた" モンペリエ大学に通っていたのだが、その低レベルな環境で、長さや面積について独力で考え抜き、独力で測度論とルベーグ積分を再発見したという。恐ろしい腕力である。車輪の再発明は非効率的だと言われることもあるが、腕力の究極的な証明という一面もあるのかもしれない。

 ただ、これはグロタンディーク自身の回顧録 "Récoltes et Semailles" を元にした逸話で、この本は少し話を盛っているようなところもあるらしい。何ともスッキリしない終わり方になってしまったが、今日はここまで。

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