考える、書く、忘れる
先日とある本を読んで、敢えて思考を寝かせるという行為をしているのだが、これがなかなか面白い。
その本の著者曰く、思考というのは起床後すぐに忘れてしまう夢のような、浮かんでは消えてゆく泡沫のようなもので、どんなに素晴らしい考えであっても数瞬の内に消えてしまう。故にいつでもどこでも書き記すことが出来るような状態にしておいて、紙の上で育ててやることが大事ということらしい。
忘れないように頭の中で考え続けていると、時計をずっと見ていたら中々時が進まないのと同じように、じっくり考えているつもりでも案外考えは煮詰まらない。頭の片隅に追いやってやることで、無意識に近い領域で思考が熟成され、自分でも思っていなかったようなところまで思考が発達していくのだそうな。
私はこの本を読んだとき、事実かどうか疑うよりもまず「面白そうだ」と思った。というのも、内容は啓発に限りなく近いのだが、この本は終始随筆のような語り口で進んでいく。私の多大なる偏見であることは重々承知の上で申し上げるが、著者のべき論や押し付けがましさの強いそういう類の書籍と違い、自分の実践していることを多種多様な比喩表現を用いて記されていて、まるで古文でも読んでいるようなおかしみと情緒を感じたからだ。
それにこれは決まった時間にあれをやれこれをやれといった、画一化されたルーティンではなく、思いついたら手当たり次第にメモを取るという実にシンプルな方法で、私好みだったというのもある。元々創作のネタになりそうなものはメモするようにしていたのだが、それだけでなく不意に疑問に思ったことや輪郭がはっきりした持論などを書き記すようになった。
特に意識していた訳ではないが、メモを取り始めてから今日で2か月経っているらしい。毎日なにがしか面白いことを思いついていた訳ではないので抜けている日もあるが、飽き性な自分でも案外続けられるもののようらしい。まあ、無理強いされている訳でも嫌な部分がある訳でもなく、ただ面白いと思ったことを綴るだけの行為が続かない方が不思議か。
この思考を寝かせる方法については続きがあって、実はただ書いただけでは終わりではない。定期的に読み返してみて、自分の思考の土壌を耕す必要がある。育つ前に枯れてしまったり発育不良だったりする芽を残していては、他の芽の成長を阻害する要因になってしまう。著者は植物を植木鉢から広い花壇に移し替えてやるように、他の土壌=紙面に移してやると記述していた。居心地の良い土壌に置いてやることで、更なる思考の成長を促すという魂胆だ。
更にもう一段階『植え替え』を行うらしいのだが、面倒くさがりの私はまだ一段階目で止まっている上に、中々『植え替え』を行えていない。休みの日にまとめてやろうとか、一週間経ったら移してやろうとか、色々考えては結局他の用事を済ませたり気が向かなかったりでやれずじまいの日が続いている。当初は自責の念に駆られたものだが、最近では開き直ってまだ移すべきときではないと思うことにしている。実際、数年前に思い浮かんだ物語を、今日の帰り道不意に思い出して、当時は苦戦して結局断念したその物語が今日は驚くほどスムーズに想像することが出来た。数年経ってようやく芽が出るパターンもあるのだから、2か月程度で目くじらを立てることもない、と自分を正当化しておく。
ところで、この私の脳内にだけある物語だが、当時断念する前に紙面に書き記しておいたら、一体いつ『芽』が出たのだろうか?
私が不意に思い出したように、書き記しておかずとももう一度考えの方から顔を出してくるパターンがあることは、著者も認めている。しかし自然に任せておいては、私のように何年も時間がかかる可能性もある。植物に肥料を与えて成長を促すように、敢えて忘却を促すことで思考の成長を早めるのだそうだ。
頭の中でこねくり回して結局形にならなさそうだからと手放してきた物語は、私の中に相当数あって、結局今も頭のどこかで漂っている。当時メモしていたノートやパソコンのメモ帳などもあるはずなのだが、見返すのが億劫だからとそのままにしてしまっている。もし当時、この思考法を知る機会があって、すぐさま実践することが出来ていたら、これらの物語はどうなっていたのだろうか。
Noteを更新しようと過去のメモ帳を漁って見つけた創作メモを見て、不意に考えてしまった。
『完成出来なかった作品や誰からも忘れられてしまった作品が集まるお店、もしくはお葬式』なんて話を考えている暇があるのなら、葬儀をさせないようにしなさいよと過去の自分に呆れつつ、今も結局足踏みしてしまっていることに、なんだかやるせなさを感じてしまった。
やはり私は自分を褒めて認めることよりも、叱咤する方が性に合っているらしい。今日の更新は自分への戒めと決意表明ということにさせてほしい。結局はまとまりのないただの自分語りに過ぎないが、鼻で笑いつつお付き合いいただけると幸いである。
蛇足
もし私の文章を読んで、自分も真似してみたいと思った方。今回の話は『思考の整理学』という本に載っていたことを私なりにまとめた(+私情を挟んだ)ものなので、詳しく知りたいという方は是非該当書をご覧いただきたい。他にも非常にためになる話が載っている上、ページ数はそう多くないのでさっと読んでしまえる。
『思考の整理学』に恐らく記されていない、私が実際行って気付いたことを一つだけ記すなら、「文章は断片的で構わない」ということである。無理に格式張る必要も、格好つけた言い回しにする必要もない。メモの段階では誰に見せる必要も無いのだから、自分だけが分かる状態にしておけば問題ない。「あとで読み返して分かるだろうか」と不安になる気持ちも分かるが、安心してほしい。ちゃんとわかる。私が保証する。大分頼り無い保証であるが。
この本に関しては大小様々な影響を受け、多数の感想を抱いたので、また気が向いたら書きなぐることもあるかもしれない。