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食卓に国境を引くのは難しい
私は日本で生まれ育ちましたが、29歳のときにアメリカへ移住しました。あれから23年も経ち、娘と息子はいつの間にか20歳近くになり、いわゆる「移民二世」として、私とは全く異なる視点でアメリカ社会を生きてきています。
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私は日本人、子供たちはアメリカ人なので、国籍の違う人たちが家族にいるというわけです。地図の上では国境がくっきり描かれていても、私たち親子の心にはそうはっきりと境界線を引くことはできません。私自身は日本からアメリカへ来るまでの苦労や祖国への思いをはっきりと覚えていますが、娘と息子にとって日本は「幼い頃に親に連れて行ってもらった、なんとなく懐かしいイメージがある場所」であり、「自分のルーツ」でもあるはずの不思議な国です。実際に日本にちゃんと住んだことはほとんどありませんから、どこか「おとぎ話の舞台」のように感じているようにも見えます。彼らは最近、日本旅行に行きたがるのはそれが理由の一つかもしれません。
言葉の問題はそのややこしさを、いっそう際立たせます。私は仕事も含め日常生活では日本語を使うことが多いのですが、当たり前のことですが、子どもたちは学校や友人との会話が英語なので、ときどき家族の会話が複雑になります。子供達から英語で話し続けられても、本質的なニュアンスは全くついていけないですし、逆に私が言いたいことを難しい日本語の単語と語ってしまうと、子どもたちの理解が追いつかないことは普通です。「どっちも中途半端だ」と感じる瞬間ばかりだの親子の会話ですが、お互い使う単語を注意深く選ぶので、言葉やコミュケーションの本質を考えるきっかけにもなります。
この家庭内の「言葉の断層」を少し和らげてくれる存在が食事です。親が日本から受け継いできた料理の味は、子どもたちにも確実に受け継がれています。たとえば、みそ汁の香りをかぐと、やっぱり子供達も「なんだかホッとする」らしいです。食という体験が、言語とは別のかたちで親子のルーツをつないでくれるのだと実感します。
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いまや世界中の食材がスーパーマーケットで手に入る時代です。かつては見つけるのが難しかった調味料も気軽に買うことができ、日本のレシピをそれなりに再現できるようになりました。アメリカで暮らしていながらも、日本食を楽しみ、時にはタコスを作ってみたり、ハラル料理の調味料を取り入れてみたりと、味覚の冒険はどこまでも広がります。料理のレシピだけでなく、その背景にある文化的な儀式や家族の記憶も、自然と食卓を通じて子どもたちに伝わっている気がします。
一方で、近年はAIが翻訳や文書の要約など、さまざまな「言葉の仕事」を代替し始めています。「本当に人間の言葉やコミュニケーションは必要なくなってしまうのだろうか」と不安を煽るニュースや記事に溢れかえっています。しかし、「おいしい」「懐かしい」といった感情はまだAIには扱いきれない領域だとも感じています。妻が娘や息子にみそ汁を出した瞬間に生まれる安堵の表情や、私自身が子どものころ母と過ごした台所の風景がふと頭をよぎるときの感覚は、数値化やデータ化では捉えきれないものだと思います。
さらに、人間の料理には予測不能な「手加減」や「勘」が入り込みます。「今日はちょっと甘めにしよう」「だしは少し濃いめにしよう」と、レシピには書きにくい調整を日々やっています。ときには、仕事や家事に追われてバタバタしてしまい、塩加減が思ったより強くなってしまうこともありますが、そんな些細な変化を子どもたちは敏感に感じ取って、「今日の味付けはどうしたの?」と質問が出ます。これこそ、データ主導のAIには再現しにくい、人間ならではのゆらぎです。
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子どもたちが大人になって巣立ってい今日この頃、少し寂しさもあります。しかし、みそ汁やお好み焼きのような、受け継いできた日本の味が、彼らの中に「何か大切なもの」として根づいているのは確信しています。どの文化にも、言葉を超えた食の魔力があり、二世たちはその魔力に救われたり、ときには翻弄されたりしながら、自分のアイデンティティを確立しているようです。
祖国を十分に知らないまま育った娘と息子は、料理を通じて「自分はどこから来たのか」を肌で感じているように見えます。毎日の食卓で、「おいしい」と感じながらふと自分のルーツに思いを馳せる。その体験こそが、彼らの中で日本への愛着を少しずつ育んでいるのかもしれません。
AIがこれからどんなに進歩したとしても、“懐かしさ”や“切なさ”といった人間の感情までは完全に模倣できないでしょう、今のところ。料理を介して親から子へ伝わるのは、単なる味付けや手順だけではなく、家族の歴史や受け継いできた文化そのものです。たとえば、お正月のおせち料理と一緒に受け取ったお年玉には、数字では表せない特別な意味が宿っています。その断片に触れたとき、二世である子どもたちは自分の中にある日本のルーツを、ほんの少し愛おしく感じるのかもしれません。
国境という目に見えない壁に戸惑いながらも、私たち家族はアメリカで日々を営んでいます。娘と息子にとって、湯気の立つ一皿の料理は、きっと「自分はどこから来たのか」を思い出させてくれる大切な証拠になるでしょう。家族という奇妙だけれど温かな共同体のなかで、味覚は過去と現在をつなぎ、私たちの心を純粋な喜びで結びつけてくれます。世界のどこにいても、人間が手放すべきではない原始的な感覚──それが「おいしい」と感じる瞬間なのだと思います。